幻想と仮想のダンス〜 Blue Summer / Green Idol 〜 W大学の構内。香月叶苗は、休講掲示板を眺めていた。同志、役数名。最低の授業の休講掲示を見つける。 (やったぁ!) 思わずガッツポーズを取る。同志、ゼロ。冷たい視線を受け、そそくさとその場を去る。この空き時間を何に使おうか、と思案した。 とりあえず、大学の端末室に行くことにした。メールが来ているかもしれない。大学のアドレスしか教えていない相手もいるのだ。 かなり古い外観の校舎の一つに入り、階段を昇る。この古びた校舎に、最新のパソコンを並べた端末室があるとは、内部の人間以外は誰も思わないだろう。これも、一種のセキュリティかもしれない。 そんなことを考えているうちに、目的の場所に辿り着く。どうやら今は空いているようだった。早速、パソコンの一つを立ち上げ、パスワードを入力する。OSが立ち上がるまでの間に、先々の予定を決める。まず、メールをチェックしよう。次に、ブラウザを立ち上げて、いつも行っているニュースサイトを見に行く。この二つは、同時進行でも良い。 そこまで考えたところで、OSが立ち上がる。予定通りに作業を進めていく。まず、メールチェック。メールサーバに接続している間に、ブラウザを立ち上げ、ニュースサイトのURLを入力する。今度はその合間を縫って、メーラーを見る。どうやら、新着メールはないようだ。 そして、ブラウザにウィンドウを切り替えた時、巨大な文字が彼女の目に映る。 “プロバイダbsgi、倒産!!” そういえば一ヶ月ほど前、このプロバイダのサーバがハッキングされたという記事をどこかで読んだ覚えがある。その影響だろう。しかし、自分には関係がなかったので、記事内容を読むことはしない。そのままトピックだけを見ていくものの、気になる記事はなさそうだった。 いくつかお気に入りのホームページを渡り歩く。しかし、どこも更新されていなかった。 (つまらないなぁ・・・・。う〜ん、どうしよう?) 結局、パソコンをシャットダウンし、端末室を出ることにした。音を立てないように注意してドアを閉める。以前、部屋の外まで追いかけて来た他の利用者に怒られたことがあるのだ。騒がしくして、騒がしくするな、と言うような奇妙な輩が、稀に大学という場所には存在する。後ろ手に閉め終わった時、彼女は、壁に奇妙なビラを見つけた。A4のコピィ用紙に、無骨なワープロ文字。この手のビラにありがちな自己主張もなく、淡々とした文章だった。 「篠崎都馬事務所、スタッフ募集。 ●時間、給与、応相談。 ●誰にでもできる、書類整理などの仕事です。 ●パソコン使える方歓迎(ワープロなど)。 ●女性のみ募集。 Tel:03−●○▲●−●△△● mail to: 」 最後の「mail to」以下は、破れてしまって読めなかった。 大学四年の春(といっても、もう五月だったが)。単位は去年までにほぼ取り尽くしている。その他は卒論を書くのみ。バイトもこの間辞めたばかりである。正直に言えば、金欠だった。かといって、以前までやっていたような、ありふれた仕事は嫌である。それは就職に関しても同様で、卒業後もすぐに就職するつもりはなかった。 それに、篠崎都馬といえば、聞いたことがある。確か、ハーフ・フィクション作家と呼ばれる、異色作家だったはずだ。本人はノン・フィクション作家を自称してやまないと、どこかの雑誌にも載っていた。叶苗本人は読んだことはなかったが。そもそも、叶苗は硬派なノン・フィクションが好きなのだ。しかし、こんな機会は滅多にあるものではないし、この作家に興味もある。 渡りに船ではないか。 鞄から携帯電話を取り出し、早速電話してみることにした。 聞きなれた電子音が、耳に響く。 「もしもし、篠崎都馬事務所ですが・・・・・・」 間延びした声が受話器から聞こえてきた。叶苗は、一息つくと、一気に喋りだした。 「すいません。あたし、その、張り紙見たんですけど! 篠崎都馬さんの事務所がスタッフ募集してるって! その、ノン・フィクションって大好きなんです! だから、ぜひ働かせていただきたいんです! お茶汲みでも何でもします!」 言い終えると、叶苗は深呼吸をする。わざわざ“ノン・フィクション”と言ったのは、相手の流儀に合わせて話し、不快感を与えないテクニックである。しばらくの間・・・・・・。 (うう、この間が耐えられない・・・・・・) 「あの、もしもし?」 「ああ、何言ってるかわからなかったけど、とにかく一度、事務所の方に来てください。面接しますから」 「何言ってるかわからなかったって・・・・・?」 「受話器、外してたから」 「何で?! 一所懸命喋ったのに〜」 「いや、起き抜けに、大声は聞きたくなかったしね。まぁ、君のアピールは、面接ですれば良いと思うけど」 「は、はあ・・・・・・。では、いつ伺えばいいですか?」 「いつでも良いですよ。何だったら、今からでも。住所は――」 叶苗は急いでメモを取り出し、住所を書き留める。すぐ近くである。 学食でカレーを注文し、栄養摂取のためとばかりに、味わう暇もなく食べる。頭の中は、このあと言うであろう、自己アピールの言葉を思い浮かべていた。 味も素っ気もなく昼食を食べ終わると、彼女は早速、書き留めた住所に向かった。 ◇◆◆◇ 大学を出て、メモを見ながら五分歩いた時点で、叶苗はすでに土地鑑がなかった。大学付近しか歩かないし、大学から最寄駅の方向とは反対側である。途中、交番で道を訊き、場所の確認はしたものの、見たことのない街並みが不安を煽っていた。今来た道を五分戻れば、よく知る街並みが広がっていると言うのに、この違和感。それは、初めて東京に出てきたときの感覚と似ているようでいて、違っていた。そう、知っている場所がすぐ近くにある、ということが、逆に不安を煽るのだ。角を曲がれば、そこが異世界だった、というような感覚。あり得ないものが存在し、そこでは自分は異分子である。 嫌な想像を振り払おうとして、来た道を振り返ってみる。そして、そのまま視線を空に向かって投げる。すると、大学の研究棟が見えた。 「なんだ。まだこれだけしか来てないじゃない。大丈夫大丈夫!」 たったそれだけで、先ほどまでの嫌な想像は振り払われた。 そして、再び目的地に向かおうと、振り向いたとき、目の前に雑居ビルが立っている。入り口にある住所とメモを照合する。 「はははは、見つかっちゃったよ」 そして、テナントの看板を見てみると、「篠崎都馬事務所」と言う文字。三階のようだ。三階建てのせいか、はたまた資金不足のせいか、エレベータはない。あまり掃除されていないような、薄汚れた階段を上がり、三階のドアの前に立つ。スピーカのないインタフォンを鳴らし、しばらく待つ。 (誰も出てこない・・・・・・) 「すいませ〜ん!」 今度は、ノックをしながら声を上げてみる。 (・・・・・・・・・) なんだか腹が立って来る。ドアのノブに手をかけてみると、意外なことに鍵はかかっていなかった。そのまま押し開け、開いた隙間から、中に向かって大声を張り上げる。 「すいませ〜ん! あの、さっき電話した者なんですけど〜! 来てくれって言われたから来たのに、もしかして、歓迎されてませんか〜?」 多少皮肉もこめてみる。すると、しばらくして、奥から足音が響いてきた。 出てきたのは、ほっそりとした男。身長は、叶苗より少し大きいぐらいか。胸元に幾何学模様がプリントされたTシャツにブルージーンズ、髪は短い。 「いやぁ〜、ごめんごめん。ちょっと、トイレに行ってたもんで」 高い声だった。しかし、身長や容貌に妙に合っていて、叶苗は少し可笑しくなる。この声の高さと快活さからして、この人は電話の人ではないだろう。 「朝から下痢なんだよね」 言わなくていいことまで言う。 「ところで、さっき電話した者なんですけど、聞いてませんか?」 「あ〜! 聞いてるよ。その時も俺、便所にいたんだよ。そのせいで、寝てた先生に電話取らせちゃったんだよ。だから、先生機嫌悪くて・・・・・・」 また言わなくていいことを言っている。しかも、今度はジェスチャつきである。しかし、なぜだか愛嬌がある。高い声と、ユーモラスな動きのせいかもしれない、と叶苗は判断する。 「とにかく入って」 叶苗は、少し緊張した面持ちで中に入る。普通のオフィスであるにもかかわらず、靴を脱ごうとしてしまったぐらいだ。何となく周りを見渡してみる。雑多な書類の山。埃をかぶったコンピュータ。中でも彼女の目を引いたのは、許容限界を超えているごみ箱だった。 案内をする男のあとをついて行くと、木製のドアが目に入った。 「俺は先生呼んで来るから、君はこの中で待ってて。座ってていいから」 そう言って通されたのは、ビルの外観、事務所の雑多な印象に比べれば、かなり小綺麗な部屋だった。ガラステーブルに、エキゾチックなテーブルクロスがかかっていて、その上に、クリスタルと思われる材質の灰皿が乗っている。 男の言ったとおり、ソファに腰掛け、壁にかけられている風景画をぼんやり眺めていると、ドアが開かれた。 そこに立っていたのは、ごく普通の男だった。身長は百七十センチ半ばぐらいだろう。体格は少し痩せ気味。白のカッタシャツに、皺の寄った黒のジャケットを羽織り、ゴム草履を履いている。ネクタイはしていない。髪は寝癖がついたままである。 「あー、君、電話してくれた人だね?」 間の抜けたような声で訊いてくる。 「はい! わたし、香月叶苗と言います。すぐ近くのW大学の四年生です」 「あ、そう。じゃあ、始めようか。僕が篠崎です、よろしく」そう言って、篠崎はソファに腰掛けると、煙草に火をつけた。「あ、煙草、良かったかな?」 「ええ、問題ありません。父もヘヴィスモーカでしたから」 「ああ、良かった・・・・・・。よくやるんだよね。病院の診察室でやってしまったこともあるよ。その時は医者に怒られたなぁ・・・・・・。“煙草は体に良くないですよ”って」 そう言って、篠崎は口元だけ微笑んだ。 「確かに、体に悪いですね。やめた方が良いと思います。父にもそう言ってるんですけど、なかなかやめてくれませんね」 「・・・・・・今の、ジョークだったんだけど、面白くなかった?」 「いえ、わざと外したんです」 言い終わると、叶苗はくすっと声をあげて笑った。実は、さっきも篠崎のジョークに必死で笑いをこらえていたのだ。 「そうか。自信あっただけに、ちょっとショックだったよ。でも、及第点ってところかな?」 「ええ、割と傑作だと思います」 「じゃあ、採用。ここで働いてもらおうかな」 篠崎はそう言って、煙草を吹かす。 「え?! 何も言ってないのに?」 「うん、採用」 「せっかく、色々アピールすること考えてきたのに?」 「君、面白いから」 「それだけ?!」 面接だと言うことを忘れ、叶苗は敬語を使っていなかった。先ほどまでの上品なモードはたちまち剥がされ、フランクで戦闘的な、本来の彼女がイニシアティブを取り始めていた。 「う〜ん、理由が必要かな。僕は君を雇いたい。君は、雇われたくてここに来た」篠崎は煙草を美味しそうに吹かす。「違うかな?」 「ええ、そうですけど・・・・・・。何か、スッキリしません」 やっとの思いで感情をコントロールする。叶苗は、切り替えの早さには自信があった。今も、うまく行ったと思う。 「多分・・・・・・、そう、二ヶ月ぐらいしたら、わかると思うよ」 「は、はぁ・・・・・・」 「試用期間だね」言いながら、篠崎は灰皿に煙草を押し付ける。「というわけで、面接は終わり。じゃあ、早速働いてもらおうかな」 「はい!」叶苗は、元気良く返事をする。「でも、時給と働く日の相談が先です」 篠崎は、彼女の切り替えの速さに感心しながらも、苦笑した。なかなかしっかりしている、と評価する。 「何笑ってるんですか?」 「いや、何でもない。じゃあ、契約内容について詰めようか」 「はい、期待してます」 「じゃあ、好条件で行こう」篠崎は苦笑する。「時給は千円。来て欲しい日は、前日までに連絡をするので、その日はよほどのことがない限り来てもらう。あと、暇なときはいつでも来て良いよ。仕事さえしてくれれば、給料は出す。こんなところでどうかな? あ、休日の申請は、一週間前までに」 「はい、文句ありません」 叶苗は、“呼び出しには応じる”という条件に、少し不安を感じたものの、篠崎の出した条件に満足していた。特に“暇なときはいつでも来て良い”というのが魅力的だ。 「じゃあ叶苗君、やっと働いてもらえるのかな?」 「はい、喜んで」 叶苗は、元気良く返事をした。 “とりあえず、仕事の第一歩は自己紹介から”という篠崎の言葉に従い、同僚となる人たちに、叶苗は挨拶をした。 「香月叶苗、二十一歳。すぐそばのW大学の四年生です。趣味は、月並みながら読書とお菓子作り。料理もそこそこ。まだ、何ができるかわかりませんが、できるだけ早く、先輩方に追いつきたいと思っています。よろしくお願いします。今、必死で考えた自己アピールが無駄にならなくて良かったと思ってます」 篠崎は、叶苗の視線を感じ、またも苦笑させられてしまう。化粧をしていない顔が印象的だ、と無関係なことを考える。 「じゃあ、僕から」煙草をくわえながら、篠崎が自己紹介する。「作者紹介を見てください」 「先生、あれで何かわかるんですか? 個人的なことは何も載ってないじゃないですか」 「生年月日と、著作リストがわかる」煙草に火をつけながら、篠崎が答える。「それで十分だと思うけど」 「先生って、恥ずかしがりやさんなんですね」 「叶苗君、君ねぇ・・・・・」 傍に立っていた男が、急に話し始める。 「名前は深海真吾。無視されるのが嫌いな二十四歳」彼はそこで、にやりと笑った。「趣味は車の改造かな。ここでは、資料用のカメラマン。ホームページも作ってるけど、ちょっと不得意分野。あぁ、あと、叶苗ちゃんって呼んでいいかな?」 「結構です」 「え? どっちの意味?」 「想像にお任せします」 「じゃあ、好意的に解釈」 深海真吾は、そう言って歯を見せた。 「ホームページ、あとで見せてくださいね」 「始めたばっかりだし、工事中だらけで何もないよ? それでもいいなら」 「htmlのソースと将来の展望だけでも、問題ありません。想像しますから」 「じゃあ、ソースと将来の展望だけ、教えてあげれば良い」 篠崎は横槍を入れてやる。 「ひっどーい! 権力横暴です」 「意味がわからないよ、叶苗君」 篠崎は肩をすくめて見せる。 「ホームページのスタッフ紹介、新しいネタが出てきたぞ」 真吾が呟く。篠崎と叶苗は、その横でまだ問答を繰り返していた。もっとも、叶苗が一方的に言い募り、篠崎がそれをかわしているだけだったが。 連続“口”撃をかわしながら、篠崎は、彼女の人間としての面白さについて、肯定的な評価と刺激を感じていた。 ◇◆◆◇ 翌日、篠崎都馬は散歩をしていた。いや、正確には散歩させられていると言った方が良いだろう。香月叶苗に事務所を追い出されたのだ。 『掃除するんです』と言って、にっこり笑われた覚えがある。そのときは目覚めたばかりで、記憶が曖昧だったが。 結果的には早起きになってしまったが、それも良いと思う。使える時間が増えるからだ。 “早起きは三文の得”という諺を実践するために、篠崎は早速行動することにした。 知り合いの新聞記者に電話をかけてみる。要するに、ネタ探しである。職業の性質上、そういった情報はリークしてもらえないように思われるが、案外、教えてくれるものである。それは、時間感覚の差である、と思う。新聞記者は、仕入れた情報をその日のうちに、しかも途中経過であっても発信しなければならない。一方、篠崎にとっては、途中経過では意味がないのである。全てを見極めた後、執筆時間が生じる。よって、発信されたときには、その情報は既に、時の流れに消えてしまった後であったりする。しかも、事件の渦中に足を踏み入れるわけだから、新聞記者より多くの情報を得ることがある。そういった゛深い゛情報をリークすることで、彼とはギブ&テイクを保っていると言って良い。 良い関係というものは、そのバランスが大事である。 ――と。ここまで考えを進めたところで、やっと目的の記者が捕まった。 『もしもし、九条ですが』 「篠崎だけど。何か、面白い事件、ないかな?」 『ああ、あんたか。また異端児さまのご出馬ってわけか?』 「まあ、そう言わないで欲しいな」 そう、篠崎はノンフィクション作家としては、異色の存在なのだ。普通、ノンフィクションというのは、大事件をほとぼりが冷めた頃に掘り出し、当時の関係者に聞き込みをして、作品を物する。一方、篠崎はといえば事件の渦中に身を置き、その中で見聞きしたことを作品に反映するのだ。現に、九条の表現した通り、彼は異端児扱いされていた。 『ない、残念ながらな。あったら、会社になんかいないさ』 気付けば、煙草に火をつけていた。篠崎はそれを勢い込んで吸い込み、肺活量の全てを使って吐き出した。しばしの浮遊感を楽しむ。 「そうか。じゃあ、何かあったら、メールで」 『はいはい。んじゃ切るぜ。これから、微笑ましい記事を書かなきゃいけないからな』 言い終えると、乱暴に受話器を置く耳障りな音が聞こえた。篠崎は静かに公衆電話の受話器を置き、火が消えてしまった煙草を捨てるために、灰皿を探し始めた。 あてが外れた。さて、どうしたものか・・・・・。 まずは、事務所に帰って、コーヒーを飲むことにした。 (掃除が終ってると良いけど・・・・・) ◇◆◆◇ 事務所に帰り着くまでに、煙草を二本消費した。消費数が増えれば増えるほど、篠崎は調子が出てくる。もっとも、一定量を越えると、調子も頭打ちになるが。鉄製のドアを開け、中に入ると、ちょうど香月叶苗が彼の自室から出てきたところだった。 「あ、先生、お帰りなさい。コーヒー、飲まれますか?」 「うん、そうだね。頼む」 事務所部分は、まだ掃除が行き届いていない様子だったので、自室に運んでもらうことにする。深海真吾が近づいてきて、小声で囁く。 「彼女、すごい勢いで掃除してましたよ」 「そうなの? その割には、事務所はちっとも綺麗になってないみたいだけど」 「先生、聞こえてますよ〜。綺麗な環境は、主の部屋から、です」 叶苗がコーヒーをトレイに乗せて、キッチンから出てくる。 「こだわっているね」 「はい、もちろんです」 篠崎は、それ以降は会話を続けず、自室に戻る。叶苗がその後を着いて来て、コーヒーをライティングデスクに置く。 「はい、先生、コーヒーです。淹れたてですよ」 「うん」コーヒーを一口すする。「おいしいね。優をあげよう。濃いのが僕好みだ」 「先生、大学の教授みたいです」 「掃除も、優をあげても良い」 「ありがとうございます」 叶苗は、満面の笑顔を残して、部屋を出て行った。篠崎は、抜群に美味いコーヒーを飲み、煙草に火をつける。少し吹かしただけで満足し、灰皿で煙草を消そうとして、考える。 この灰皿が綺麗だったことがあっただろうか・・・・・。 思い返すと、そんな記憶はまったくなかった。その灰皿は、篠崎が学生時代から使っているもので、収容力と丈夫さだけがとりえの、巨大な鉄製だった。当時、自分で溶接して作ったものである。ここまで灰皿が綺麗だと、汚す気すらなくなってしまうが、先々のことを考え、いつもより余計に煙草を押し付けて火を消した。 コーヒーを飲み終え、ニコチンを十分補給し終えた篠崎は、日課であるネットサーフィンをしようと思い立った。しかし、事務所は掃除中である。かといって、自室のパソコンは主に執筆用なので、ネットには繋がっていない。騒々しいのを覚悟で、事務所へと出て行く。 「あ、先生! ちょうどいいところに来てくれました。棚の上のもの、降ろしてください」 「そんなことは、真吾君に頼めば良いだろう?」 「真吾さん、あたしとあまり身長変わらないし」 「悪かったね、チビで」 真吾が拗ねたような声をあげる。彼は、カメラのレンズを磨いていたようだ。 「あたし、チビだなんて言ってません」 「言ったじゃないか」 「言ってません」 二人は徐々にヒートアップして行く。それが面白かったが、篠崎はとりあえず止めることにする。 「で、僕はどうすれば良いのかな?」 『黙っててください!』 予測しなかったユニゾンの応答である。 「・・・・あ、そう。じゃあ、僕はネットしてるから、静かにしててね」更に、念を押して言う。「静かに、だよ?」 『はい・・・・』 篠崎のわずかな怒気を察したのか、二人は、それぞれの作業に戻っていく。叶苗も、どうやら棚の上の徹底掃除は棚上げしたようで、はたきをかけている。 篠崎は、最近はネットに繋がりっぱなしになっているパソコンを操作し、ネットサーフィンを始める。新聞やテレビなど、他のメディアにはない掘り出し物とも呼ぶべき情報が、ネット上には転がっていることがままあるのだ。 いくつかサイトを回ってみるものの、題材になりそうな情報、興味を惹く情報は見つからない。ふと思いついて、ごくたまにしか行かない、某掲示板サイトにアクセスする。このサイトは、情報の真偽は怪しいものの、芸能情報から政治的なものまで、女性週刊誌顔負けのものが溢れ返っているのだ。篠崎は、稀にその情報群の砂漠から、彼にとってのダイヤの原石を見つけ出すことがあった。今回も、そうありたいと願いながら、リンクを辿って行く。 “大泉首相、深夜の密会?!” 政治にはほとんど興味がない。題材としては大きすぎると評価する。真偽も怪しい。 “埼玉連続刺殺事件、犯人は俺だ!!” ワイドショーが喜びそうなネタである。 “ネットアイドル紗月、ストーカ行為に悩まされる?! 彼女の私生活に脅威” そこで、篠崎は目を留めた。 紗月というハンドルネームには覚えがあった。顔見知りではないが、何度かメールをやり取りしたことがある。確か、篠崎のファンだと言って、メールを送ってきたこともある。文章のハイテンション加減に、辟易した覚えもある。彼女のホームページも、見たことがあった。そこそこ有名なサイトのようだった。 同一人物かどうかは怪しいものだが、確かめてみる余地はある。ダイヤの原石の予感がするのだ。早速、本人にメールを送ってみることにする。メーラーを立ち上げ、゛紗月゛というキーワードで検索をする。三件ほどヒット。しかし、送信者名は゛柳瀬睦美゛となっている。確か、本名がそうだったはずだ。そういえば、最後にこちらからメールを送った時は、何度も突っ返されてきたことがあった。それ以降、こちらからメールを送ったことはない。 返信機能を使い、本文を書き始めるようとしたその時、叶苗が背後から声をかけてきた。 「あ、そのアドレス、もう使えませんよ?」 「え? 何でわかるの? 超能力?」 「あっはっは、素敵な思いつきですけど、違います。そのプロバイダ、倒産してますから。昨日、ニュースサイトで見ました」 「ああ、そういえば・・・・」 「そうです。あの事件で、ユーザが離れてしまったんだと思います」 「仕方ないな。彼女のホームページを探そう。そこにはアドレス載ってるだろうし」 篠崎は、面倒だと思いながらも、検索エンジンにアクセスする。たちまち、目的のページを見つけ、アクセスする。サーバが重いようだ。 煙草に火をつける。周りを見てみると、叶苗は、窓拭きに熱中しているようだ。真吾は、相変わらずカメラのレンズを磨いている。 ディスプレイに視線を戻すと、ページの表示が終っていた。メールアドレスをすぐに発見する。コピー&ペースト。ついでに、ページ内のリンクをたどり、情報の真偽が確かめられるような情報がないか見てみる。派手な化粧と衣装を身に着けた女性の写真がそこかしこに散見される。篠崎は、目が痛くなってきた。画像を表示しないように、ブラウザの設定を変え、さらにリンクをしらみつぶしにして行く。 ・・・・・あった。 掲示板がものの見事に荒らされていたのだ。いや、正確にはそうではない。゛たくろう゛というハンドルネームを持つ人間の狂信的な書き込みが続いているため、他の訪問者たちが離れてしまっているようだ。 (う〜ん、大変だなぁ。でも、これで、ストーカの話も真実味を帯びてきた・・・・・) 微笑んでいる自分に気付く。煙草に火をつけ、不謹慎で打算的なもう一人の自分を追い出そうと試みる。どうやら、成功のようだ。気分を落ち着かせ、自分を取り戻す煙草の機能がうまく働いたようだ。この機能が、篠崎にとっては欠かせない。彼が煙草を吸っている理由の一つが、そこにあると言って良いほどだった。 思い出したように、メールを書く。 『返信が遅れてしまってすみません。返信しようと思ったら、プロバイダを変更されていた ようで、メールが帰ってきてしまいました。ホームページの方で、勝手に調べて、返信して います。不躾ですね(苦笑)。 いつも、拙著の感想、ありがとうございます。メールの返信をしているぐらいなら、執筆に 入れ、とのお叱りを受けるかもしれませんが・・・・・。 ところで、さる情報筋から、貴女が大変な目に遭っている、といった情報を得たのです が、真偽のほどはいかがでしょうか? それと、その災難は、一ヶ月前あたりからやって来たのではありませんか?』 最後の一文は、ただの予測でしかなかったが、半ば確信して、文面を変えずにメールを送信する。 あとは、待つだけである。 「叶苗君、コーヒーのおかわりを」 「はい、わっかりました〜」 叶苗は掃除を中断し、元気良くキッチンに向かった。 「それと真吾君?」 「はい? 俺にも何か用ですか?」 「さっきから思っていたんだけど・・・・」篠崎は、間延びした口調で言う。「レンズ磨きは、掃除中にはやらない方が良い。いくら磨いても、すぐに埃だらけだ」 「・・・・・何で早く言ってくれないんです?」 「いや、熱心にやっているから」 「見守ってくれてたんですね。いやぁ、俺、幸せ者だなぁ」 「うん、幸せだと思うよ」 「皮肉です。気付いてください」 苦虫を噛み潰したような表情の真吾。篠崎は、とぼけた表情で煙草に火をつける。 「昨日、叶苗君が思い出させてくれたテクニックなんだ。使いたくてね」 「そうですか・・・・・」 「どう? 面白かった?」 とぼけた表情で、半ば嬉しそうに問う篠崎に、真吾は溜息で応じた。 ◇◆◆◇ 翌日の五月二十七日、篠崎は例のごとく、地獄のような朝を過ごしていた。熱いコーヒーを流し込み、何とか目を覚ます。彼にとって、朝の目覚めほど苦痛なものはないし、朝のコーヒーほど美味いものはなかった。 事務所を覗いてみると、深海真吾と香月叶苗が朝のワイドショーを見て、大きな笑い声を上げていた。まったく、高血圧人種というのは、理解が出来ない。理解が出来ないどころか、今の自分にとっては、頭痛の種ですらある。そそくさとキッチンへ退散し、顔を洗う。ついでにコーヒーをもう一杯飲みながら、煙草を吹かす。煙草も、目覚めの一本が格別である。 朝のコーヒーと煙草。それは、彼にとって、何物にも換え難い特別なものだ。 やっと、人と接する気になるぐらいの人間性を取り戻し、篠崎は、事務所に戻る。 「あ、先生、おはようございます。髪、跳ねてますよ?」 「あ、先生、おはようございます。髪、似合ってますよ」 朝の挨拶にしてはエスプリが利いている、と篠崎は評価する。 「叶苗君、おはよう。直すのが面倒なんだ」まず叶苗に挨拶。「真吾君、ありがとう」 「どうやら、まだ本調子じゃないみたいですね。動脈硬化にでもなったらどうです? 血圧上がって、朝が楽に起きられるかも」 「うん、名案かもしれない。叶苗君、今日の昼ごはんは、コレステロールたっぷりメニューで行こうか」 「了解です。親子丼に卵焼き、卵スープにしましょう」 叶苗が、指折り数えながら、メニューを羅列していく。 「うげ、俺、パス・・・・・」 「え? あたしが作ったごはんが食べられないんですか?」 「ぐぐぐ・・・・・・」真吾がうめく。 「叶苗君、協力ありがとう」 「いえいえ、どういたしまして」 「共同戦線かよ! っつーか叶苗ちゃん、馴染みすぎ! まだここに来て二日じゃないか。そのコンビネーションは何なんだよ?!」 確かに叶苗の切り返しは、実に軽快である。篠崎自身、驚いていた。回転の早さ、雰囲気を掴む能力、どれを取っても、実にレベルが高い。多分、天性のものだろう、と篠崎は判断する。 「ただ、コレステロール=卵という発想は、貧困だ」 「わかりやすさを追求したんです」 「そこまで考えてるなんて、いっそのこと、芸人になったら〜?」 真吾が、復讐とばかりに茶々を入れる。篠崎は、第二次大戦の予感がして、電子の海へ避難することにした。 パソコンを立ち上げ、まずメールチェックをする。個人的なメールが何通か、とりあえず、返信は後回しにする。そして―― 期待していたメールが届いていた。柳瀬睦美、すなわち紗月からのメールだ。 『篠崎先生、メールありがとうございます。 何度もらっても、先生からのメールは感激です。 でも、ちょっと内容がヘビーですね・・・・。 >ところで、さる情報筋から、貴女が大変な目に遭っている、という情報を得たのですが、 >真偽のほどはいかがでしょうか? これ、事実です。正直言って困ってます。どうしたらいいんでしょう?(先生に訊いても仕 方ありませんね) >それと、その災難は、一ヶ月前あたりからやって来たのではありませんか? そ、そのとおりです・・・・・。なぜわかったんですか? できれば理由を教えてくだされば、幸いかと存じます。では、また』 予想通りの反応だ、と篠崎は思う。こういった場合、内容とは無関係に嬉しくなる。篠崎都馬は、そんな男だった。 早速、リプライする。 『篠崎です。 ぜひ、一度遊びに来てください。 例の理由は、その時にお話します。 事務所の電話番号は03−●○▲●−●△△●です。 不在にすることは滅多にありませんが、一応アポイントを取ってください』 最後に事務所の住所を書き、送信する。 「どうも、メールのやり取りと言うのは疲れるな・・・・・」 「そうですね。あたしも余り好きじゃないです」 独り言のつもりだったが、叶苗が傍で聞いていたようだ。 「うん、この――」 「タイムラグが耐えられない」 「そう、それだ。今、言おうと思ったんだけどね。君は反応が速過ぎる」 「先生、次の題材は、ネットアイドルのストーカですか?」 「君、見てたの?」 「見てました。そりゃもうバッチリと! 昨日のメールも」 ガッツポーズまで取りながら、叶苗が言う。篠崎は、頭が痛くなる。 「趣味が悪いよ」 「ごめんなさい」叶苗は頭を下げる「今朝来たとき、どんなメールソフト使ってるのかな、と思って見てたら、つい、送信記録を開いちゃったんです」 「不可抗力か。それは仕方がないね。それに、いずれわかることだから」 「で、先生が見事に解決するんでしょ?」 「不本意ながらね」 突然の飛躍に、やっとそれだけを言う。どうやら、まだエンジンが暖まっていないようだ。 「不本意? 不本意なんですか? でも、作品のためなわけでしょう?」 「まぁ、ね・・・・」 気付くと、煙草に火をつけていた。好都合とばかりに、吹かす。叶苗は、こちらが更に解説を加えるものと思って、期待に満ちた目をしている。しかし、ここぞとばかりに、彼は立て続けに煙を吐いた。 「話したくない理由でもあるんですか?」 篠崎は、煙を吐きつづける。煙草を吸っている間は喋らなくて良いのも、メリットの一つだろうか? 叶苗は、沈黙を肯定と受け取ったらしく、真吾の方に歩いていった。 訊かれたくなかったわけではない。ただ、自分の中でも曖昧なこの理由を、誰かに話す気分にはなれなかっただけである。それだけに、悪いことをしてしまった気分になる。 (そう、非常に曖昧で・・・・、感傷的な理由だ) 数日後、篠崎がまだ本調子になりきれていない時間帯に、柳瀬睦美から、電話がかかってきた。事前にメールで知らせがあったので、突然と言うわけではない。叶苗に取り次いでもらう。 「お電話代わりました。篠崎ですけど」 『あの、柳瀬睦美です。今、住所の場所まで来ているんですけど・・・・・』 元気のない声である。ストーカ行為などに遭っていたら、そんなものかもしれない、と篠崎は勝手に想像する。 「ああ、それなら、上がってきてください。三階です」 『はい、わかりました』 電話が切れる。篠崎は思いつきで鏡を覗き込む。しかし、寝癖は取れそうにない。一瞬で諦めた。 「僕は、応接室で待っているから、叶苗君はコーヒーを淹れて。真吾君は、客人の案内。美人だからと言って、時間を無駄に使わないこと」 「わかりました! お客さん用に、少し薄めで行きます」 「へ〜い、了解」 叶苗の元気な返事とは対照的に、真吾の声は沈んでいた。何か、個人的な予想図を描いていたのだろう。その思考をシャットアウトして、応接室に入り、待つ。 ソファに腰をおろし、煙草に火をつけたところで、柳瀬睦美が紫色の花を持って入ってきた。完全に予想外である。 「初めまして、篠崎先生」 「は、初めまして・・・・・」 花束の威力は絶大で、篠崎は完全に思考のスリープ状態に陥っていた。かろうじて、その状態を脱し、目の前の少女を観察する。ネットに公開されている写真よりは、かなり地味な印象である。ベージュのサマーセーターに、ロングスカートという出で立ちである。正直な話、篠崎は、ネット上の写真、メールなどから得た印象を元に、圧倒されないようディフェンスを強化していたのだが、その部分では安心した。しかし、両手に抱えられた花は、あまりに予想外である。 篠崎の言葉を待っているのか、彼女はせわしなく視線を泳がせている。寝不足なのだろう。目が赤かった。 「とりあえず、座って」 「はい。でもその前に、先生にプレゼントです」 「ありがとう・・・・」かろうじて声を出す。「綺麗な花だね。何ていう花?」 「フリージアです。私の大好きな花・・・なんです」座りながら、睦美はか細い声で答える。 「花瓶、あったかな・・・・。インドの壷ならあるんだけど」 何とかして自分を取り戻そうと、篠崎はジョークを言ってみる。しかし、レベルが低すぎた。睦美は無反応である。叶苗か真吾なら、何らかのリアクションが返って来るのだが。今は、それが切望された。 そこへ、叶苗がコーヒーを運んで来た。 「叶苗君、十秒の遅刻だよ」思わず口に出してしまう。 「何なんですかそれ? 不条理ジョークにでも目覚めたんですか?」 叶苗の呆れた表情に、篠崎は曖昧に微笑むことしかできなかった。そこへ、くすくすと笑い声が聞こえて来る。 柳瀬睦美の笑い声だった。そちらに視線を遣ると、花がほころぶような笑顔が目に映る。篠崎は、その笑顔で救われた。 「叶苗君、君は凄いよ。あとでとっておきのジョークを聞かせてあげよう」 「はい?」叶苗は、まったく状況が把握できず、頭の中に疑問符を浮かべた。 「インドの壷っていうのは、ジョークだったんですね・・・・」 やっと気付いてもらえたようだ。 「インドの壷? 何なんですか一体」 「今度の作品が上がったら、買おうと思ってるんだ。予算は十万円」 「なるほど・・・・」 叶苗は、ようやく事態が飲み込めたようだ。ただ、篠崎に向ける視線は微妙に冷たい。 「それで柳瀬さん、君に協力してもらいたいんだ。インドの壷を買うために」 篠崎は、やっと自分を取り戻し、意識して微笑む。 「やっぱり、そういうことだったんですね・・・・。おかしいとは思ったんです。先生の方が、あまりに積極的にアプローチして来られるので」 「不躾だったことは謝るよ。騙すような真似をしたことも、許されるとは思っていない」 篠崎は、頭を下げる。相手を引き込むテクニックではなく、本心からだった。 「いえ、いいんです。誰かに助けてもらいたいとは思っていましたから」 「ところで叶苗君? 君はなぜそこにいるの?」 「いや、コーヒー、三杯淹れて来ましたし、問題はありませんよ? ささ、睦美さんも熱いうちにどうぞ」 叶苗はそう言って、コーヒーをテーブルに三つ置くと、自分もソファに腰掛けた。 「君ねぇ、それは論点のすりか――」 「あ、美味しい・・・・」 「でしょう? 豆は、秘密のブレンドらしいですよ?」 「ええ、わたし、コーヒーは苦手なんですけど、これは美味しく飲めます」 「気に入ってもらって、あたしも嬉しい」叶苗は微笑む。「あ、フリージアね。かわいい。香りもいいんだよね〜」 「わたしもです」 叶苗の口調も変わり、すっかり意気投合してしまっている。篠崎は、何か取り残されたような気分になった。篠崎は、一瞬にして何かを諦め、煙草に火をつけた。それに、ここまで意気投合してしまえば、叶苗がいた方が、都合が良いかもしれないと思い始めていた。 「え〜、おほん」咳払いをし、二人の注意をひきつける。「叶苗君、ここにいても良いよ」 「ほんとですか?!」 「ただし、次からは事前に了解を取ること。同じ手は二度通用しないからね」 「はぁい・・・・」叶苗は、沈んだ声で返事をしながら、睦美にだけ片目を瞑ってみせる。睦美は、それを見て微笑み返す。 篠崎には、彼女が何故微笑んでいるのか、理解できなかった。 「明るい雰囲気になったところ、申し訳ないんだけど。さっきの話を続けさせてもらう」篠崎は、そう前置いてから、話し始める。「えー、柳瀬さん、いや、睦美君と呼ばせてもらおう。僕らは、今君が抱えている問題の解決に協力する。その代わり、その事件を題材に、小説を書く。と、ここまでは良いかな?」 「・・・・はい。さっきも言ったとおり、誰かに相談したいと思っていたんです。その前に、なぜ、わたしが一ヶ月前から、ストーカ行為をされているのか、わかったんですか?」 「実はね、それは叶苗君のおかげなんだ」 「え? あたし?」 篠崎は頷いてから、話し始める。 一ヶ月前、睦美の利用していたプロバイダbsgiのサーバがハッキングされたこと。その少し後、篠崎自身が送った彼女へのメールが、何度も突っ返されたこと。そして数日前、睦美のbsgiのアドレスにメールを送ろうとして、叶苗からbsgi倒産の話を聞いたこと。そして、睦美がストーカ行為に遭っているのを知ったこと。 「それで、一つの可能性に思い当たったんだよ」篠崎は、しばらく吸っていなかった煙草に火をつける。「bsgiのサーバがハッキングされた時、君の個人情報が盗まれたんじゃないか、とね・・・・・」 「わたしの? 個人情報が?」 「ストーカは、君の自宅にまで押しかけているんだろう?」 「ええ、そのとおりです。おかしいとは思っていました。なんで、わたしの家がわかったんだろう?って」 「ストーカ本人が、ハッキングの犯人なのかどうかはわからないけど、なかなか綺麗な形に収まるだろう? 予測でしかないけど」 篠崎は、煙草を吹かしながら、睦美の反応を見る。どうやら混乱していて、言葉が出ないようだ。 「先生、すごい推理力ですね」叶苗は、心底感心する。 「違う、想像力だ。根拠はゼロ」 「いえ、多分その通りなんだと思います・・・・・」絞り出すように、睦美が言う。かなり沈痛な面持ちである。「こんなことなら、ネットアイドルなんて、調子に乗るんじゃなかった・・・・。友達にそそのかされて、それに乗ったわたしが悪かったんです。本当は地味な自分が、ネットの世界では、アイドル扱い。こんなの自分じゃないってわかっていながら、やめられなかった。ちやほやされるのが嬉しかった。でも、結局は、本質の見えない世界で踊ってただけなんですよね・・・・・・」 「そんなことないっ! あるわけない!」叶苗は、耐え切れなくなって言う。「女の子は化粧で夢を見るの! そんな気持ちを踏みにじるような真似をした奴が悪いのよっ!」叶苗は心の底から叫んでいた。気付けば、目に涙が溜まっていた。自分でも理由がわからず、不思議に思う。自分を重ねていたのだろうか。しかし、彼女は化粧をしない主義だった。ますますわからなくなる。 「いや、確かに、少し認識が甘かったかもしれないね」 「先生、言い過ぎです! 睦美さんの気持ちも考えてあげて!」 「最後まで聞いてくれるかな。認識は甘かったかもしれないけど、叶苗君の言うとおり、君が悪いわけじゃない。ただ、言わせてもらうとすれば、人はいつからだって変われるし、何があっても変わらずにいることができる。本質は――」篠崎は、煙草を灰皿に押し付ける。 「君が決めるんだ」 呆然としていた叶苗が、人差し指を顎に当て、考えるような仕草を始めたかと思うと、呆れ顔に変わった。 「・・・・・先生、意味がわかりません。もしかして、ジョークですか?」 すっかり切り替えが済んだようだ。涙も乾いている。睦美は放心したように、こちらを見つめていた。 「いや、真剣だよ。わからないのなら、考えることだ。叶苗君も、睦美君もね・・・・・」 『・・・・はい』 叶苗と睦美が、同時に返事をする。 「先生、わたしのこと、題材にしてくださってかまいません。ストーカのこと、よろしくお願いします・・・・」 「うん、ぐっすり眠れるようにしてあげよう。それに、書かれたくないことがあったら、いつでも言うと良い。君が嫌になったら、僕は手を引くから、安心して良い」 「いえ、先生の作品はいつも綺麗ですから、そんな心配はありません」 「嬉しいお言葉だね。作者の考える、読者の鑑だ」 篠崎は微笑む。 「あたしも、先生の作品、読もうかなぁ・・・・」叶苗は、やり取りを聞いて、思わず呟いてしまう。 「叶苗君は、読まない方が良い」 「何でですか?!」 「先入観が怖いから」 「また訳のわからないことを・・・・」叶苗が困った表情を向けると、篠崎は、窓の外をぼんやりと見ていた。 「ああ、雨が降りそうだね。睦美君、早く帰った方が良い」 「そうですね。では、改めてよろしくお願いします。少し、眠れそうです」 「それは良い。協力してもらってありがとう。インドの壷が買えたら、大きい花束を見繕ってもらうからね」 叶苗と睦美は、同時に笑い出した。 その後、少しだけ話をしていたが、本当に雨が降り出しそうになったので、睦美を帰すことにした。帰り際、詳しい状況をメールで送るように、篠崎は言い含めておいた。会談時に、聞き忘れていたわけではない。情報というものは、整理されたものを聞いたほうが何かと都合が良いものだと、篠崎は常々思っている。 その後来たメールの内容を整理してみると、ストーカはほぼ毎夜現れ、ずっと睦美の家を観察しているらしい。今のところ、直接的に危害を加えられたことはなく、時々、写真のフラッシュを炊くのが見える程度だと言う。 「う〜ん、月並みだけど、張り込むしかないみたいだね・・・・」 「マジですか? うわ、俺、あれが一番苦手なんですよ〜」 真吾が不満そうに言う。 「真吾君は、じっとしているのが嫌いだからね。叶苗君は、付き合える?」 「あたし、忍耐力には割と自信あります。じっとしてるの、得意とは言えないけど・・・・」 「そうなの? 僕は、時間的なことを聞いたつもりだったんだけどね」 「え?そうなんですか? 語るに落ちてしまいました」叶苗は苦笑する。 「僕は意図してないから、その表現は不適切だよ」篠崎は、叶苗の淹れてくれたコーヒーをすする。美味い。「で、時間はどうかな?」 「翌日に授業のある、木曜の夜以外なら、大丈夫です」 「うん、今日は土曜日だから、次の木曜までには、片がつくと思うよ」 ◇◆◆◇ 街灯に虫が集う下で、篠崎たちは車の中にいた。虫たちは、雨が降っていても、街灯が好きなのは変わらないんだな、と篠崎は意味のないことを考える。彼が煙草を立て続けに吸っている傍らの運転席では、真吾がビニルを被せ、応急防水したカメラをかまえていた。そのため、窓は開けたままだ。雨が時々入り込んで来る。叶苗はと言えば、退屈した様子である。シートをリクライニングさせ、寝転んでいる。居住性の高いワンボックスだからこそできる芸当である。 「なんか、探偵みたいですよね〜」 叶苗が間の抜けた声を出す。 「僕、探偵は嫌いなんだ。言葉の響きが良くないね。ディテクティブとか、プライベート・アイは好きだけど」 「言葉の響きだけで決まるんですか?」 「うん、そうだよ」 篠崎は口の端を歪める。真吾は、黙ってカメラをかまえている。 「それにしても先生、今日は現れないんじゃないですか?」 「忍耐力」 篠崎は視線を動かさずに言う。叶苗は、露骨に困った表情をしたようだ。 「うぅ、確かに言いましたけど・・・・」 「しっ! 来た・・・・・」 真吾が、押し殺した声で言う。篠崎は、レンズの狙う方向に視線を投げる。立て続けにシャッターが切られる。光量はかなりあったので、フラッシュは炊かないで良いようだ。睦美の家付近が、街灯の多い場所で助かった、と篠崎は思う。男は、二十代後半だろうか、いや、もっと若いかもしれない。男の太った体型が、年齢を曖昧にしていた。 それから数時間観察を続けたが、現れた男は何をするでもなく、睦美の家を見ているだけだ。時々、カーテンにシルエットが映るたび、彼もまた、シャッターを切っているようだ。 通行人が来ると、しばらく姿を消し、また現れる。 「先生、捕まえちゃわないんですか?」 「今手を出したら、僕らの方が、罪が重くなるかも知れないからね。向こうはどう転んでも、プライバシィ侵害。こちらは、傷害を覚悟しなきゃいけない。」 訴えられたときのことは、考えておかねばならないのだ。ああいった輩は、えてしてヒステリックであるし、知能も低くはない。 そんなことを考えているうちに、男は帰っていったようだった。 篠崎たちも、帰ることにした。 張り込み二日目。成果なし。今日も男は特に何もせずに去っていった。 三日目。現れなかった。さすがに少し焦れて来る。 そして四日目の夜。 今夜は、月が出ていなかった。゛月のない夜は気をつけろ゛という月並みな言葉を信じるつもりはなかったが、何かが起こる予感がした。 ストーカと思われる男は、今日も姿を現している。しかし、昨夜と同じく、何をするわけでもない。叶苗は、暇つぶしに本を持ってきて、それを読んでいる。 「叶苗君、もう少し集中しようね。給料、出てるんだよ?」 「は〜い」 本を置いて、叶苗も視線を外に向ける。その時、急に光が差し込んで来て、彼らは目を眩ませられた。向こうに気付かれたか? 篠崎は焦る。 「おっほん。君たち、こんな深夜に何をやっておるのかね? カメラなんぞ持って」 眩しさから解放され、目を開くと、そこには、かなり年輩の警官が立っていた。 「僕たち、興信所の者でして。その、浮気調査をですね・・・・・」 「はぁ? だから、カメラなんぞ持っとったのか」 「ちょっとしたものなんですよ、このカメラ」 真吾が、誇らしげに掲げてみせる。 「うむ! ワシは浮気は大嫌いでの。姦通罪も、無くしたりせんかった方が良かったと思っとる。浮気はいかん。結婚ちゅうのは約束だからな。約束は守らにゃいかん」 「そうですね。では、他の巡回の方々にも、邪魔をしないよう、伝えてもらえますか?」 篠崎は意識して、友好的に微笑む。しかし、視線は、ストーカのいた方向を注視していた。男は、角を曲がり、姿を消した。 「うむ。了解じゃ。わしに任せておけ」 警官はそれだけ言うと、自転車に乗って、巡回に戻っていった。篠崎は、姿が見えなくなるのを確認しながら、睦美の部屋の窓を見る。電気が消えていた。眠ったのかと思ったが、嫌な予感がした。月の無い夜は、何かが起こる。そんな根拠の無い予感が、彼を焦らせた。 「真吾君、車を回して! そこの角を右! 叶苗君は、睦美君に電話!」 真吾は急いでイグニションを回すと、エンジンを稼動させ、一気に走り出した。叶苗は携帯電話を取り出し、かけているようだ。 「つながりません!」 「やっぱりそうか。二人とも、耳を澄ませておくんだ。窓は全て開けてくれ」 『了解!』 二人はユニゾンで答える。 その時、悲鳴が聞こえてきた。車は四つ角に差し掛かっていた。 「どっちだ・・・・・?」真吾が呟く。 「左! こっちは路地が多い!」 篠崎は叫ぶ。攻撃的で、回転の速い自分が顔を出すのを自覚する。今は煙草を吸って、抑えなければならない理由はなかった。彼の大声に驚きながら、真吾は慌ててハンドルを切った。 もう一度悲鳴。フロントガラス越しに、狭い路地が見えた。 「よし、車を降りるぞ! 叶苗君と真吾君は、僕とは違うルートをたどってくれ! 僕の勘が間違っていたら、どうしようもない」 篠崎は、そう言って路地へと駆け込む。勘だけで、角を曲がっていく。 ――そして、三つ目の角を曲がったところで、彼は辿り着いた。柳瀬睦美が、地面に倒れており、太った男が醜怪な表情で、シャッターを切っていた―― 叶苗と真吾は篠崎とは違うルートを辿るものの、その全てが袋小路になっていた。もちろん、誰もいない。 「戻りましょう! 先生のルートがきっと正しい!」 「ああ、そうだな!」 二人は、篠崎の通ったルートを追跡していく。途中、曲がる角を間違えたこともあったが、やっとの思いで篠崎の元へと辿り着く。遠くを見てみると、睦美が倒れていた。篠崎は、少し肩を震わせている。何かを我慢するような背中。叶苗にはそう見えた。 「君は、何をしている?」 篠崎が、怒りを押し殺したような声で、ストーカへと話し掛けた。 「お、おまえは誰だぁ?!」 「僕か? ノン・フィクション作家だよ。そして、彼女の友人だ」 言葉を発するたびに、篠崎は一歩ずつ近づく。睦美は、どうやら気絶しているようだ。 「わわ、訳のわからないことを言うな!」 「事実だ・・・・。今度、調べてみると良いよ」 篠崎の声音が少し緩くなった。冷静になったのだろうか、と叶苗は予測する。 「ねえ、真吾さん。先生は、なぜやっつけちゃわないのかな?」 「相手が手を出すのを待ってるんだ。追い詰めて、逆上するのを待ってるんだよ」 「正当防衛? そこまで気を遣う必要があるんですか?」 「先生のスタイルだからな。こればっかりは見てて背中が冷たくなる」 真吾は、冷や汗をかいているようだった。 「で、君は何をしているのかな? 僕の友人を気絶させて、写真なんか撮ったりして・・・・」 篠崎は、また一歩踏み出した。男は後退る。 「彼女はボクのアイドルなんだ! そして、ボクだけのアイドルになるんだ!」 「どうやって?」 気付けば、篠崎は男を壁際まで追い詰めていた。 「か、彼女のプライベートな写真を持ってるのはボクだけだ! 彼女の住所だって!」 「ハッキングをしたのは君か・・・・?」 「そうさ! ボクだ! ボクは彼女の全てを知るんだぁぁぁぁぁ!」 男は、こもったような声で叫ぶと、手に持ったカメラで篠崎に殴りかかった。篠崎は、それをかわすぎりぎりのところで、頭にかすらせる。一筋、血が流れた。 篠崎は、にやりと笑った。 「これで、正当防衛だ!」 篠崎は、男に向かって、連続で拳を繰り出す。脂肪が多いせいか、あまり効いてはいないようだ。男はますます逆上し、篠崎が攻め疲れたと見ると、反撃してきた。左右の拳を立て続けに繰り出す。しかし、スピードが遅い。篠崎は確実にブロックし、受け流し、バックステップでかわしていく。しかし、防御も長くは続かない。何発かクリーンヒットをもらう。 「オッサンがでしゃばるからだ! ざまぁ見ろ、ハハハハハ!」 男は、朦朧としている篠崎を目に、高笑いを上げる。叶苗は見ていられなくなり、飛び出そうとするが、真吾がそれを止めた。 「何で止めるの?!」 「まぁ、黙って見てろって。先生に任せよう」 篠崎は、かろうじて立ち上がった。煙草をくわえる。ストーカ男は、彼を見て、高笑いを上げ続けている。 「そこのアンタら! このオッサンを助けなくていいのか?」 「あ〜、おかまいなく。ただのギャラリーですんで。一つアドバイスさせてもらえば、あんまり相手を見くびってると、痛い目に遭いますよ〜」 真吾が、おどけて見せる。男は、高笑いをやめ、狂ったように篠崎に殴りかかる。 「こんなボロボロのオッサンに負けるかよ!」 「ああ、うるさいな。頭が痛くなる」 篠崎は、拳を軽く受け流し、殴り返してから、痛みで朦朧とする頭を押さえる。そして、ひるんだ男の側頭部に、蹴りを入れた。男は、どさり、と音を上げながら倒れた。そして、それきりまったく動かなくなった。 「先生! 大丈夫ですか?!」 叶苗が駆け寄り、ハンカチを頭の傷に当てた。みるみるうちに、血に染まっていく。 「ああ、大丈夫だよ。少し、過剰だったみたいだ」 「大概にしてくださいよ。いつもヒヤヒヤすんですから」 真吾が、にやにやしながら言う。 「すまないね」 篠崎は苦笑する。 (過剰って、どういう意味だろう?) ストーカ男は、全く動かない。少しやりすぎかもしれない、と叶苗は思う。 「ああ、そうだ。叶苗君、睦美君を看てあげてくれ」 「あ、はい!」叶苗は思考を中断し、睦美の様子を見る。「どうやら、乱暴はされていないみたいですね。外傷は少ないです。恐怖のあまり、気絶しちゃったんじゃないでしょうか」 「ああ、それは良かったね。そのまま寝かせておいてあげよう」篠崎は、安心したように微笑む。「さて、まだ終わりじゃない」 「そうですね。これからが本番なんですから」 真吾が、ストーカ男に歩み寄り、篠崎の蹴りで腫れ上がったこめかみを突付く。男は、それだけで目を覚ましたようだ。 「おはよう。気分はどうかな?」 「お、オッサン! 痛っ・・・・・」 「ああ、脳震盪で気絶していたからね。大きな声は出さないほうが良い」 「言ったろ? 相手を見くびらない方がいいって」 真吾が男の肩を軽く叩く。 「で、君には今、二つの選択肢があるんだけど。一つは、もう二度と彼女には近づかないと約束する」 そこで真吾は写真を撮り、男のポケットを探ると、財布から身分証明を取り出す。それを、男の目の前にちらつかせた。 「もう一つは・・・・、僕が最高のダイエット法を知っているから、それを実践する」 「う、うるさい! 人のたた体型に文句!・・・・あいたた」男は、まだ頭が痛むようだ。 「いわゆる食事制限法というやつだけど、留置場なんかどう? 無料だよ?」 篠崎は、怖いぐらいに優しく微笑む。 「人生の一部を切り売りしてるから、高い買い物だと思いますけど?」と真吾。 「なかなか上手いこと言うね」 「ぼ、ボクを警察に突き出すって言うのか?! ボクはふふ、太ってないぞ!」 「まぁ、自力でダイエットするのなら、そんなお節介はなしですけどね」 叶苗も、雰囲気に乗ってみる。 「要するにね・・・・・」篠崎は、今火をつけた煙草を男の鼻先に近づける。もう、この男と話しているのはうんざりだった。「警察が嫌なら、二度と彼女には近づくなこの変態、ってことだよ。それとも、もっと蹴られたい?」 凄味を利かせてから、篠崎は後悔する。彼は、時々こういった場面にぶつかることがある。自分をコントロールできなくなるのだ。しかし、予想以上に効果的だったようだ。煙草を思い切り吹かして、気分を落ち着かせる。 「わわ、わかった!二度と近づかない! だから警察だけは・・・・・」 「うん、ステレオタイプな口上ありがとう。じゃ、そういうことで、今まで撮った彼女の写真のネガは、この住所まで送ってくれるかな?」 篠崎は、名刺を渡し、立ち上がると、背中を向けて歩いていった。足元に男のカメラを発見し、それを拾う。フィルムを引っ張り出し、ライターを近づける。その炎で、いつのまにか消えてしまった煙草に火をつけた。頬が熱かった。 「先生、この人に誓約書とか書かせないんですか?」 叶苗がおどけて言う。篠崎は背中を見せたまま、煙草をくるくると回しただけで、何も言わない。 「さて、睦美ちゃんを運ばないと〜」 「真吾さん、あたしが運びます」 「ちぇ・・・・・」 叶苗の笑顔に、真吾は口を尖らせる。叶苗が肩に手をかけると、彼女は目を覚ました。 「う、ううん・・・・。かなえ、さん?」 「大丈夫。何もされてないよ。先生が、体を張って助けてくれたから」 「先生・・・・・、篠崎先生?」 「そうよ。ほら、あそこ・・・・・」 叶苗は、篠崎の背中を指差す。 「先生、ごめんなさい! ストーカがいるのはわかっていながら、出歩いたばっかりに、そんな怪我・・・・・。あの、実は・・・・、せ、生――」 「言わなくて良いよ。女性には、謎がいっぱいだからね」 篠崎は、肩越しに振り向き、微笑んだ。睦美は、顔を赤らめてうつむいた。 「先生、どういう意味げふっ」 わざとらしく訊こうとする真吾の鳩尾に、叶苗は肘打ちを入れた。 ◇◆◆◇ 翌日から、篠崎たちは早速資料の作成に取り掛かった。叶苗と真吾も、目の回るような忙しさである。不確定な部分は、全員でディスカッションしながら、情報を統一化していく。 途中、ハッキング事件の犯人を明かしていいのか、という問題も出たが、篠崎の『まぁ、名刺を見せた時点で、向こうが条件を変えるべきだったね』という言葉で解決した。 そういった自称“会議”と呼ばれるものの最中で、とりわけ目立ったのは、香月叶苗の記憶力である。執筆中に、篠崎が質問をしたことがある。 「叶苗君、君と初めて会った時、真吾君はどんな服装だったか、覚えている?」 「胸元に幾何学模様のプリントされたTシャツに、ブルージーンズですね。なかなかのセンスだと思いました。朝からお腹を下し――」 といった具合で、延々と状況説明が続くのである。 各自の記憶のすり合わせ(真吾はあまり役には立っていなかったが)、そしてそれを元に組み上げられていく資料を元に、篠崎が執筆。その繰り返しの日々だった。その間に、梅雨がやってきて、じめじめとした空気をプレゼントして行ったが、全員エアコンをつけた室内に篭もっていたので、誰一人気にしていなかった。 そして、梅雨も去り、窓から殺人的な日差しが差し込むようになった頃、一通のメールが届く。脱稿も間近だというのに、メールばかりは読まずにいられない。 『先生、ご機嫌いかがでしょうか? おかげで、ぐっすり眠れるようになりました。ありがとうございます。 先生の言葉の意味、今も考えています。お化粧をして、おしゃれをすれば、外面は変わ れるけれど、わたし自身は何も変わらないと、今でも思います。外面を変える事で、心の 中が、少しだけ湧き立つのも事実です。でも、やっぱり地味でも、そんな自分が大好きな んです。 お化粧で夢を見るのは、少し早かったのかもしれませんね(^^; もうちょっと勉強して、 大人になるまで、お化粧はおあずけにしておきます。 そう思うのも、決して、怖い体験をした原因の一つだから、逃げようとしてるんじゃありません。 例えるなら、夏。暑くて外に出たくないのに、一大決心して、冒険して、大怪我をして帰っ てきた子供の心境です。大怪我をして懲りたけれど、楽しかった思い出は、いつまでも残 ります。楽しかった思い出、痛かった怪我、その両方がこれからの゛わたし゛を決めていく きっかけになったんだと思います。 先生に出会わなければ、逃げるだけで終ってしまったでしょう。 本当に、ありがとうございました。 では、次回作を楽しみにしてます(ちょっと、フクザツな心境ですが)。 P.S:辛い思い出の欠片ですけど、ホームページは続けます。 内容は花一色になりそうですが(苦笑)。良ければこれからの゛わたし゛を見てください。 P.S2:お花屋さんでアルバイトを始めました(ホームページのネタになりそう)。 インドの壷を買ったら、教えてください。とっておきの花束を見繕います(笑)。 紗月こと柳瀬睦美 』 篠崎はメールを読み終え、微笑む。煙草を吹かし、朝一番に匹敵するほど美味いと感じた。 作品に取り込もうかと考えたが、一瞬で否定する。これぐらいの役得があっても良いではないか。本当に綺麗な思い出は、そう簡単にアウトプットしたくない。そう、とっておきのジョークと同じようなものだ。 「先生、何か嬉しそうな顔してますよ?」 「そう? 睦美君からのメールを読んでいたんだ」 「なるほど」 「あとで読むと良い」 「いえ、今読みます」叶苗は篠崎の背後に回り、ディスプレイを覗き込む。 「おいおい・・・・」 篠崎は仕方なく、煙草の続きを吸うことにした。 最高の一本を吸い終えた頃、叶苗もメールを読み終えたようだった。 「先生は、凄いですね」 「君も、ある意味凄いと思うけど」 「馬鹿にしてません?」叶苗は、一瞬だけ睨みを効かせ、一瞬で微笑む。「あたし、先生にますます興味が湧いてきました。先生のこと、教えてください」 論理は破綻し、飛躍していたが、篠崎は素早くそれに追いつく。 「そうだね・・・・・」篠崎は、灰皿に煙草を押し付け、視線を窓の外へとに彷徨わせる。 「作者紹介を見なさい」 叶苗は、篠崎と初めて会った時のことを思い出し、笑いがこらえきれなくなった。 数週間後、作品は書きあがった。一仕事終え、開放的になっていても良いはずの篠崎は、なぜか元気がないように見えた。煙草を吸いながら、外の景色を見つめている。視線は、何かを見ているようでもあり、何も見ていないようでもあった。 「先生、元気がありませんね」叶苗は、真吾に小声で囁く。 「うん、ま、いつものことだよ。作品を書き上げたときは、いつもあんな感じ」 「そうなんですか・・・・。なぜなんでしょうね?」 「さぁ? あの先生、ちょっと変わってるからね」 真吾が歯を見せて笑う。叶苗も、微笑み返しながら言う。 「それに関しては、あたしも否定しません。でも、何でだろう?」 「先生に訊いてみたら?」 「今度、機嫌の良さそうなときに」 「ああ、そりゃダメだ」 真吾は首を振る。 「なぜですか?」 「ジョークで誤魔化されるだろ?」 「ああ、なるほど・・・・・」 叶苗は、その光景をシミュレーションし、ほくそ笑む。その時、篠崎が立ち上がった。 「先生、おやすみですか?」 「ああ、少し眠りたいね・・・・。新作、読みたければ読んでも良いよ」 「はい。真っ先に読ませていただきます! で、何時ごろ起床の予定ですか?」 「そうだね。叶苗君が読み終わる三十分前ぐらいかな」篠崎は微笑む。「感想を聞く時に、頭が冴えていないと、怒られそうだからね」 「先生・・・・」 叶苗は、自分が複雑な表情をしているのを自覚していた。篠崎はこちらを見て、何か言いたそうな顔をしたが、あくびをしただけで、部屋に入っていった。 早速、篠崎の使っていたコンピュータの前に座る。ワープロソフトを起動し、ファイルを読み込むと、早速読み始める。横書きになっているため、多少読みにくかったが、すぐに慣れるだろう。 叶苗は、冒頭の部分が気に入った。思わず、口に出してしまう。 「それは、夏も近づいた日のことだった・・・・・」 その一節を朗読し終えたあとは、黙って読んだ。集中しすぎて、呼吸をするのを忘れては、深呼吸する。その繰り返し。 正直に言って、面白い。 しかし、正確に事件が再現されているはずなのに、この妙な違和感は何だろう? 今まで読んできたノン・フィクションとは、明らかに違うのだ。篠崎を始め、登場人物たちの行動が、現実にあったこととは思えないほど、芝居がかっている。既製のノン・フィクションでは有り得なかったポップさとでも言うのだろうか。衝撃的でさえあった。 気付く。 (先生が“ハーフ・フィクション作家”って呼ばれてるのは、このせいなんだわ!) 自分たちのリアリティのない言動、行動をノン・フィクションで書いてしまったがゆえに、そう呼ばれてしまっている。何と言う矛盾だろう。しかし、自分を主人公に仕立てたノン・フィクションというのは、叶苗には斬新だった。 しかし、自分が登場していることには、かなりの違和感を覚える。 ふと、篠崎が面接の時に言った言葉を思い出す。 『君、面白いから』 「ああ・・・・・」 自分はキャラクタとして雇われたのだ。あの時の彼の唐突さは、そこに帰結するとしか思えない。そして―― 『多分・・・・・・、そう、二ヶ月ぐらいしたら、わかると思うよ』 今日はちょうど、自分がここに出入りし始めてから、二ヶ月ではないか。 叶苗は、篠崎の自室へと走った。 (そろそろ読み終わる頃かな・・・・・) 篠崎は、目覚めの煙草を吹かしながら考える。予測した通り、ノックの音。彼はそのタイミングに満足する。返事をすると同時に、ドアが開いた。 「君がここに電話してきた時に、僕はもう雇おうと決めていたよ」 叶苗は、篠崎の唐突な切り出しに驚いたようだった。言葉の軍勢を立て直し中なのか、黙ったままである。十秒ほど経っただろうか、彼女は口を開いた。 「せ、先生、どうして・・・・・?」 「作品には書かれないけど、一連のストーリィだからね。僕の頭の中には、既に描かれていたんだ」 「誉めちぎりたい気持ちと、読まれてて悔しい気持ちが、混ざり合ってます・・・・・。でも、気持ちを切り替えます。じゃあ、なぜ、電話の時から、雇おうと決めていたんですか?」 かろうじて微笑むのに成功したような複雑な表情で、叶苗が訊いて来る。 「あの張り紙を見て、女性が反応するとは思えなかったしね。“変わった人歓迎”なんて書いてあるのに、電話してくる女性はいないだろう?」 「だって、あの張り紙は破れてましたよ! 騙された?!」 「騙してないよ。不可抗力だ」 篠崎は、煙を美味しそうに吐き出す。 「詐欺みたいなもんです! 何で言ってくれなかったんです?!」 「実際、変わった人だと思ったからね。僕のジョークを、あそこまで上手く切り返されることも珍しいし・・・・・」 「ぐぅ・・・・・」 「叶苗君、おなかでも空いたの?」 篠崎のとぼけた口調に、叶苗は思わず笑いそうになるのをこらえる。 「・・・・もういいです。それにしても今の台詞、少し“演出”過剰じゃありません?」 「ああ、気付いたんだね・・・・・」篠崎は、少しも感心したような素振りを見せずに言った。「でも、これは演出じゃないよ。デフォルトだ。書かないところでは演出はしない主義だ。慎ましいだろう?」 「デフォルトでも、十分なんじゃありませんか?」 「うん、そうかもしれない。でも、何事も圧勝は面白くないね」篠崎は面白くもなさそうに言う。「叶苗君、改めてよろしく」 思いつきで、唐突に話題を飛躍させてみる。叶苗は、素早く着いて来た。 「よろしくお願いします。キャラクタとして」 「まだ怒っているね」 「怒ってません」 叶苗は、素早く背を向ける。篠崎は、その仕草を興味深く見つめた。 「じゃあ、試用期間は、終わりにする?」 肩越しに振り向いた彼女は、笑顔だった。篠崎は、それを゛肯定の笑顔゛と密かに名づけることにする。 「じゃあ、叶苗君、コーヒーを淹れてくれるかな?」 背中を向けたまま、叶苗はピースサインをした。後ろ姿に向かって、篠崎は問い掛ける。 「ところで叶苗君、“女の子は化粧で夢を見る”って言ってたよね?」 「ええ・・・・、それが何か?」 彼女は再び振り返る。 「いや、叶苗君は夢見ていないのかな、って。化粧をしていないだろう?」 「あははは、何ででしょう? 自分でもよくわかりません。見られるなら、容姿以外でって思ってるのかもしれませんね。でも、綺麗に見られたいって気持ちは、よくわかります」 「うん、それぐらいの曖昧さで良いと思うよ。志向の違いなんだろうね」 「何のお話です?」 篠崎は微笑むだけで、質問には答えない。 「男の場合は、何だと思う?」 「う〜ん、わかりません。お酒ですか?」 「男は煙草でロマンを買うんだ」 そう言って篠崎は、煙を勢い良く吐き出した。 〜End of Episode〜 |