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      既述の奇術 Double meaning? Paradox

 


 秋の昼下がり、篠崎都馬は散歩をしていた。もはや日課となってしまった散歩である。 趣味というものの本質が、習慣的かつなんとなく楽しいことであるなら、それはもしかして趣味なのかもしれない。しかし、趣味なだけではない。彼の職業上、アンテナを張って おくことに越したことはない。後者は望み薄だったが、彼にとって散歩は、ダブル・ミー ニングだった。趣味と仕事、二つの意味。
 そこまで思考を進めたところで、篠崎は事務所からほど近い公園に差し掛かった。そこでは、子供を遊ばせている母親や、合唱サークルだろうか、学生らしき男女が発声練習をしていた。多分、近くにあるW大に所属するサークルだろう。篠崎もW大の卒業生だ。大学時代にした行為や、同じ時を過ごした人間に思いを馳せることはあっても、大学そのものに対しては何の感情も抱いていない。だから、後輩かもしれない人間を見ても、感傷など起こらなかった。それが、今を生きる、という言葉の本質だ。
 そのまま公園を通り過ぎ、W通りに入る。そして、コーヒーを飲みに出てくるには少し遠い喫茶店を通り過ぎ、煙草に火をつける。それは毎日の儀式となっている。特に場所を決めているわけではない。ただ単に、事務所を出て、ちょうど煙草を吸いたくなる時間に、その場所を歩くだけである。歩道に設置された灰皿を目標に、渡り鳥のようにして灰を捨てる。その行為を五分ほど続け、事務所に限りなく近い洋菓子店の前で、思わぬ人物に出会った。
「こんにちは、篠崎都馬さん」
「こりゃどうも」
そして、煙草に火をつけた。もちろん篠崎が、である。自分の向かいに立っている人物 、煙草など吸わない(少なくとも見たことはない)。煙草を吸わないどころか、化粧もほとんどしない。服装もさほど気を使っていない様子だが、シャツとロング・スカートには不条理なまでに皺一つない。アクセサリなど論外である。装飾が不必要なほどの美貌の持ち主と言っても良い。唯一の装飾は、ロングヘアを束ねた腰のリボンぐらいのものだろう。

  いや、名前も装飾的だ。
御堂彩音、それが彼女の名前である。
「どうですか、調子は? 最近、ちょっとさぼってますね」
 彼女は、いつもどおりのポーカ・フェイスで言った。篠崎は、彼女がここにいる理由を六通りほど思いついたが、あえて訊かないことにする。
「それは言わないで欲しい。何でも良いなら、もう始めてますよ」
「選んでいられる状況だと思っているんですね?」
「僕の本は、生活に困るほど売れてないわけじゃないと思うけど?」
「そうみたい。では問題――」彩音は篠崎を指差す。「私が今一番言いたい格言は?」
 答はわかっていたが、篠崎は煙を吐き出してから、ゆっくりとした発音で言った。
「継続は力なり」

「正解」彩音は満足そうな表情を浮かべ、紙切れを手渡してくる。「これは、ご褒美」
「これはこれは・・・・・・」
「これはこれは・・・・・、何です? 言語中枢が壊れているの?」
 今のは、彼女一流のジョークなのだろう。篠崎に返答の隙を与えないまま、御堂彩音は 背を向けて歩き出す。挨拶は、振られた手だけだった。
その背中を見ながら、篠崎は自分にだけ聞こえる音量で呟いた。「訃報ですか?」
「せーんせ!今の誰です?」
「え?」
 篠崎は背後からの声に驚く。振り向くと、そこには香月叶苗が、にやにやと含みのある笑 みを浮かべながら立っていた。Tシャツにプリントされた"Be smile!"の文字とは似ても似つかない、そんな笑顔だ。篠崎は、ジーンズの方に何か違うプリントがされていないか探したが、特に現在の状況に合う文字は見当たらなかった。
「だからぁ、今の誰です?」
「ああ、台風かな」
「・・・・そんなわけないじゃないですか」叶苗は苦笑している。「ジョークですか?」
「少し違うけど・・・・・」篠崎は、煙を吸い込もうとしたが、火は消えていた。「台風で も、別れの挨拶はするみたいだ」
 それだけ言って、篠崎は事務所へ向かう。叶苗はその後を着いて行った。


 ――篠崎都馬事務所、とはいっても単なるビルのテナントである。多少の改造が加えてあり、事務所部分の奥には、篠崎の自室と応接室があった。デスクの一つで、深海真吾がキーボードを叩いている。
「で、さっきの紙、なんなんです?」
「ああ、そういえばそうだね。忘れてた」
 篠崎はわざとらしく頭をかく。
「嘘ですね?」
「うん、嘘だ」篠崎は面白くもなさそうに言う。「あとで一人で見ようと思っていた」
「何て書いてあるんです? 見せてください」
「えーっと、『明日の午後三時、例の場所にて』だって。何だか、秘密文書みたいだね」
 例の場所というのは、事務所から少し歩いたところにある、"サージュ"という名前の喫茶店だ。御堂彩音と彼の共通の場所と言えば、ここぐらいしかない。学生たちはあまり出入りしない、この辺りの基準で言えば、場末と言っても良いほどの店である。篠崎は、その静かな雰囲気が学生時代から気に入っている。
「秘密文書、ですか・・・・。何か怪しいことでもしてるんですか、先生」
「そんなことするように見える?」
「この上ない悪人面ですね」
 叶苗は眉をひそめながら言う。目は微かに輝いているように見えた。
「そう? まぁ、悪いことをしてないと言いきれるほど善人じゃない。だから、そういう時は、必ずこう答えることにしている」篠崎は、口の端を歪める。「誓って悪人だ」
 叶苗は笑いをこらえているような、呆れたような、複雑な表情をする。
「で、行くんですか?」
「行くよ。後が怖いからね」
 篠崎は、自分で言いながら可笑しくなってしまう。
「あの人、何者なんです?」
「ここだけの話だよ?」篠崎は、
叶苗の耳にそっと囁く。「あの人は、台風なんだ」
「・・・・先生、使いまわしもほどほどにしてください」
「海よりも深く反省」
 顎ひげを抜きながら、篠崎はゆっくりとした動作で煙草を取り出し、口に咥えた。
「うんうん、先生の反省が済んだところで、叶苗ちゃん、その包みは何かな〜?」
 パソコンと格闘していた深海真吾が、ディスプレイから顔を上げ、短い髪をかき回しながら言った。
「ふっふっふ、良く気づきましたね、真吾さん」叶苗は、そこで大きく息を吸いこんだ。
「これはなーんと! 香月叶苗謹製・アップルパイなのでぇ〜す」
 声の圧力の効果か、長年培った学習機能の賜物か、篠崎と真吾は拍手をしてしまう。
 開けられた箱から漂うシナモンの香りが嗅覚を楽しませ、飴色に焼けた林檎が視覚を刺 激する。どうやら、食欲まで刺激されて来たようだ。
「じゃあ、コーヒー淹れてくれるかな」
「りょうか〜い」
 篠崎の言葉に、機嫌良く叶苗が応じる。
 彼女は、足取りも軽く、キッチンに向かった。
「で、どうです?」
 コーヒーを淹れ終え、叶苗は篠崎の反応を伺うように、視線を向けてくる。
「美味いね。一切れに五百円払っても良い」
「俺なら、四百円だな〜。うまいうまい!」
 貪るように、真吾はアップルパイをたいらげて行く。
「それは、君と僕の金銭感覚の違いだと思うけど?」
「あ、やっぱそう思います?」真吾が苦笑する。「俺、食い物に無頓着だから」
「で、さっきのは褒めてるんですか?」
 叶苗が、少し痺れを切らしたかのように尋ねてくる。
「かなり高レベルの賛辞だ。趣味のレベルではないね」
 叶苗のガッツポーズを横目に、篠崎はコーヒーを一口すする。
「ああ・・・・、でも、問題がひとつ」
「え? 何なんです?」
「コーヒーが濃すぎる。アップルパイと味を打ち消しあっているね」
「え?」叶苗は自分で確かめるように、それぞれを一口ずつ試し、眉をしかめた。「やっぱり紅茶の方が良かったかなぁ?」
 天井を見上げながら頭をかく叶苗の仕草を見て、篠崎は微笑む。
「洋菓子屋さんには限りなく近いけど、喫茶店には少し遠いね」

              ◇◆◆◇

 翌日、篠崎はいつもどおり朝一番の煙草とコーヒーで人間性を取り戻し、昼食で午後を過ごすためのエネルギィを補給した。
 そして、日課の散歩の途中、御堂彩音の指定どおり、喫茶店・サージュに寄った。高らかに響くドアベルの音とコーヒーの香り、心地よいジャズに迎えられ、思わず深呼吸してしまう。
「あー、トーマさんだ。いらっしゃい」
「篠崎君、久しぶり」
 自称・看板娘の羽澄亜季のソプラノと、マスターの羽澄浩樹のバリトンが響いた。この店に来るたびに、これも一種のハーモニィではないか、と思う。妙に心地良い。この二人は親子である。
 篠崎は、入り口の右手にあるカウンタに座り、店内を見回した。まず、レトロな壁掛け時計が目を惹く。次に、一見無造作にかけられているリトグラフの原版。一年ほど前に改装されてから、ますます内装が洗練されたと思う。
「えーっと、とりあえずブレンド」
「はい! マスター、ブレンドひとつ入りま〜す」
 亜季の威勢良い声でオーダが通される。店の広さを考えれば、何もそこまで大声でなくとも良いはずなのだが、店の明るい雰囲気を作り出すのに一役買っている。これが、適材適所というものだろう。
「ところでマスター」煙草に火をつけながら、篠崎が言う。「彩音さん、来てません?」

「いや、来てないはず。私は少し買い出しに出てたけど」
 言って彼は、亜季の方を見る。彼女は、エプロンの汚れを取るべく、格闘中だ。
「わたしがお留守番のあいだも、来てませんよ。お食事のお客さんが来たら、とか考えて、 ドキドキしちゃった」
「ついでに食事をするつもりが、亜季君しかいないのを見て、帰っちゃったのかな」
「ひっどぉ〜い! わたし、サンドウィッチなら作れるもん!」
 亜季はトレイを胸の前で上下させながら、唇を尖らせる。袖先が掌を隠している姿もあいまって、実年齢よりは幼く見える。とはいえ、十七歳といえば、こんなものかもしれない。肩口で切りそろえた髪型も幼く見えたが、それは幻想だろう。
「サンドウィッチは食べたくなかったから、帰ったんじゃない?」
「トーマさんのばかっ!」
「ジョークに本気で怒ってくれる人は、からかい甲斐があるね」篠崎は微笑みながら煙草を吹かす。「本当に来てないのか。呼び出されたんだけどなぁ」
「どうやら、そのようだね。はい、ブレンド」
 湯気の立つコーヒーが出される。カップだけで、ソーサに乗っていない。
「おや、この店では、ソーサは出さないんでしたっけ?」
「昔、君が要らないと言ったんじゃないか」
 マスターである羽澄が苦笑しながら言う。
「そうでしたっけ?」
「毎回、このやり取りをしているような気がするんだけど?」
「まぁ、ブラックと決まっている相手に、ソーサを出すのは無意味だ、というのは持論ですけど。そんなこと言ったかなぁ?」
 篠崎は、人の悪い笑みを浮かべる。
「相変わらずだ」 羽澄は苦笑し、一瞬で呆れたような表情に変わる。「もう終わり。冷めないうちに飲んでくれ」
 一通り、"いつもの"サービスを受けたあとに飲むコーヒーは、格別なものである。
 まず香りを楽しみ、一口飲む。いつも事務所で飲むものと違って、少し酸味のあるブレンドである。久しぶりの味は、新鮮さも手伝って最高だった。
「うん、美味い・・・・」
「君相手だと、コーヒーひとつ淹れるにも緊張する」
「そうですか?」
「味に文句は言わない君だが、出した後にどんな意表を突かれるかわかったもんじゃない」
 羽澄はわざとらしく、首を左右に振る。今度は、篠崎が苦笑させられる番だった。
 スイング・ドアの開く音。追いかけるように、ドアベルが鳴った。
「あれ? 先生、どうしてサージュにいるんです?」
 入ってきたのは、香月叶苗だった。目を丸くしている。
「確率的に言えば、そういうことがあってもおかしくはない」
「叶苗センセだ〜! いらっしゃい。トーマさんと知り合いなの?」
 亜季が嬉しそうな声を上げる。
「今、篠崎先生のところでバイトしてるの。その様子からすると、先生は常連みたいね」
「うん、わたしが小学生のころからかな。最近はあんまり来てくれなかったけど」
「勤勉になったんだよ」
 篠崎が窓の外に目を向けながら、口を挟む。
「比較対象が過去数ヶ月に限られるので、あえて何も言いません」
「サンプルが少ないから、君の表情が何を物語っているか、僕も言わない」
「叶苗センセ、今日は何の用?」
「アップルパイの敵討ちよ」
 叶苗は、亜季の怪訝そうな表情を横目に、篠崎に意味ありげな視線を投げてよこす。
「なかなか研究熱心だね」篠崎は煙を目で追いながら答える。「ところで、その先生って言うのは何?」
「ああ、それは――」
「叶苗センセは、わたしが高二の時に通っていた塾の先生だったんです。でも、今年の春に辞めちゃったんですよね〜」
「ええ、あの塾長、大嫌い」
 叶苗はおどけた表情である。
「わたしもだいっきらい!」 亜季も笑いながら応じる。「でも、叶苗センセがいたから、楽しかったな〜」
「はっはっは。叶苗ちゃんがいなくなったから、亜季は塾を辞めたんだよな」
 叶苗は少し驚き、ばつの悪そうな表情をして頭を下げた。その姿に、羽澄は首を左右に 振りながら、苦笑で応じた。
「こうやって時々は遊びに来てくれるから、わたしは満足だもん」
「でも、来年は受験だ」
 篠崎は微笑みながら水を差す。
「トーマさん、わたしのこと嫌いでしょう?」
 篠崎は微笑みながら、煙草をくるくると回すだけで、何も言わない。亜季は、頬を膨らませただけで、それ以上の追及をやめ、叶苗と話し始めたようだ。しばらくすると、彼女たちのセキセイインコのように黄色い声が、店内を支配した。
「叶苗ちゃんには、感謝してるんだ」羽澄がコーヒーカップを片付けながら話し掛けてくる。「彼女が来ると、亜季のやつ、いつも以上に元気になる。お姉さんみたいなものなんだろうね。一人っ子で、母親もいないあの子にとって、貴重な存在だよ」
「叶苗君も、亜季君のこと、妹みたいに思ってるんでしょう。いいコンビです」
「そうかもしれないね」羽澄は、二杯目のコーヒーを出してくれる。「塾を辞めると言い出 したとき、正直心配したんだが、前よりもいい関係になっているみたいだ。お金も浮く」
 彼は、そう言って少しだけ翳のある笑みを浮かべた。 
沈黙を破ったのは、乱暴なドアの音と、ドアベルの甲高い悲鳴だった。
 男が一人、店内に入って来る。ダーク・スーツと派手なネクタイをしており、痩せぎすで目つきは鋭い。アーミィ・ナイフのようだ、と篠崎は思う。
 彼を見た瞬間、羽澄の顔に緊張が走った。
「邪魔させてもらうよ」
 男が、聞き取りづらいハスキィ・ボイスで言う。男は、不快なまでに靴音を響かせながら、窓際のボックス席に座る。
「・・・・いらっしゃいませ」
「コーヒーひとつ。あと、スパゲティ・アラビアータ」
「かしこまりました」
 羽澄が静かに、しかし落ちつきのない声で応じ、スパゲティの準備にかかる。手際に迷いはないが、表情は硬い。寄り添うように亜季が見守っているが、やはり落ちつかない様子だ。
 篠崎は、窓外を眺める振りをして、男を観察する。お世辞にも、まっとうな人間には見えない。直感も推測も必要とせず、彼はそう判断した。カウンタの奥では、スパゲティを 炒める小気味良い音と、ニンニクの香りが最高に食欲を刺激してくるが、彼には、煙草の苦味だけが感じられた。
 羽澄は、スパゲティ・アラビアータを滞りなく作り終えたようだ。皿の周りを拭くと、それを亜季に渡そうとして、手を止めた。彼は自らカウンタを出ると、やや緊張した足取りで、男が座る席へと向かい、無駄のない動作で皿を置く。
「コーヒーは、今すぐお持ちいたしますか?」
 しかし、声には緊張が感じられる。緊張の原因は、彼が食通だからではないだろう。
「一緒に持ってきて、って言わなかったっけ? 記憶喪失かねぇ?」
 男は芝居がかった口調。羽澄は、職業的な笑みを浮かべながら、申し訳ありません、と 応じた。他の客が次々と席を立ち始めるのを見て、羽澄はその対応に向かった。
「何よ、あの客、感じ悪いなぁ」
叶苗が声を潜めて言う。亜季も、同意見とばかりに頷く。
「最近、毎日のように来てるんだよぉ・・・・」
「亜季、そんなことを言うものじゃない。誰であろうと、大事なお客様だよ」
 彼女の不満そうな口ぶりを、レジの対応を終えた羽澄が嗜める。しかし、彼自身の表情 から、本心ではないと、篠崎は判断する。
「マスターの言うとおりだ、亜季君。店の人間は、客に文句を言ってはいけないものだ」
 微笑んで言う篠崎を横目に、羽澄はコーヒーを淹れ始めた。
「しかし、いつ見ても、マスターの手際には惚れ惚れしちゃいますね」
羽澄は声を上げて笑う。「叶苗ちゃん、誉めてもサービスはないよ」
 しかし、篠崎の目から見ても、彼のコーヒーを淹れる手つきは芸術品だと思う。茶道のような点前があるとすれば、彼は免許皆伝だろう。
 じっくり時間をかけてコーヒーを落とし終え、羽澄は再び男の座る席へと向かう。
「お待たせいたしました」
「ああ、待ちかねたよ」細身の男は、唇の端についたトマト・ソースを舐め取る。「淹れてる間に冷めるんじゃないかと冷や冷やしたね」
「申し訳ありません。こちらの不手際です」
「不手際だよねぇ。あんたがぼやぼやしてる間に、俺の心は冷めちゃったよ。もう要らない。持って帰って」
 踵を返して戻ってくる羽澄の向こうに、厭らしい笑みが見えた。
「マスター、良ければ僕と叶苗君がいただきますよ、そのコーヒー」篠崎は、声のトーンを上げる。「多分、冷めてる心配もなさそうですから」
 出されたコーヒーに、美味しい、と歓声を上げる叶苗を見て、篠崎は苦笑した。

 声のトーンが高かったからだ。

 「僕らは店の人間じゃないからね」

  篠崎の呟きに、叶苗は片目を瞑って答えた。

  さりげなく男を見てみると、彼は携帯電話を操作しているようだった。その目が、こちらを向き、鋭く光ったように見えた。篠崎は何気なく視線を外し、店内を見まわすように してから、カウンタに向き直った。

  電子音が鳴り響く。羽澄は磨いていたグラスを置き、受話器を手に取った。その動作が実に素早い。

 「もしもし、サージュでございます」

丁寧な口調に、柔らかい声。これが職業人というものだろう。しかし、その姿も長くは続かなかった。顔が強張り、声も低くなっていく。

 「はい・・・・、はい」

  羽澄の電話の対応を気にしながらも、篠崎の注意は窓際の男の声に注がれている。男は、 電話に向かってがなりたてていた。

「あー、返してもらえないと困っちゃうんだよねぇ。いや、あんたを責めてるわけじゃないんだよ。ただ、ビジネスマンの悲哀ってのもわかって欲しいわけよ」男は電話をしなが ら、篠崎に厭らしい視線を向けてくる。「そんなつもりじゃないんだけどね。俺もさ、社長に顔向けできないって言うか、仕事してますよってとこを見せなきゃいけないのね」

  篠崎は、電話の内容を聞いているうちに、頭が痛くなってきた。陰湿な脅迫だが、効果的だ。しかし、方法が気に入らなかった。

「まぁ、そういうわけ。じゃ、明日また」

  男はそう言って電話を切る。篠崎はカウンタの方に向き直る。すると、羽澄もちょうど受話器を置くところだった。軽く溜息をつき、彼はグラス磨きに戻る。背中越しに、聞き 取りにくいハスキィ・ボイスが聞こえてきた。

「ごちそうさん」男は羽澄に声をかける。「はいよ、代金」

  代金を支払い、ドアへと向かう。男はそこで振り返り、篠崎に向かって言った。

 「あんた、面白いね」

  向けられた鋭い目つきに、篠崎は動じることなく微笑みを返す。

 「そりゃどうも」篠崎は自分の携帯電話を取り出して振って見せる。「声、控えめにした方が良いですよ」

「はは、やっぱ面白い。でも、仕事は仕事なんだ。敬意を表して、名刺でも渡そう」

  男は笑顔で名刺を出して、楽しそうに去って行った。"アドバイザ・黒田 壮一"。それ以上の情報は無い。肩越しに覗きこんでいる叶苗に見せてから、それを篠崎は胸ポケットに しまった。

「なあに、今の・・・・・」亜季が不思議そうに呟く。「トーマさん、何かしたの?」

「いや・・・・、多分、僕の顔が面白かったんだろう」

  篠崎は真顔で言う。亜季はその表情を見て、吹き出してしまう。

 「確かに、今の顔は傑作」

「失礼なこと言うね」篠崎は苦笑する。「失礼千万とは、まさにこのことだ」

  叶苗も大笑いしている。カウンタの向こうでで、羽澄は笑おうとして失敗したような、 複雑な表情をしていた。

「しかし、嫌な客でしたね」

「最近、あの人のせいで、お客さん減ってるの。もう、コーヒーぶっかけてやろっかな」

「亜季君、マスターが困った顔をしているよ」

彼女は、父親の顔を見て、しゅんとする。「はぁい・・・・・」

「ところでさ――」篠崎が口を開くと、二人の視線が集中する。彼は少し怯みながら、言葉を続ける。「亜季ちゃん、来年から受験だよね?」

「はい?」

「いや、受験だよね?」

  篠崎は同じ言葉を繰り返す。彼女たちは、その言葉に何か深遠な意味を読み取ろうと、 必死に考えている様子だ。

「う、うん、来年は受験生・・・・・・。それが何か?」

「叶苗君、勉強でも教えてあげたら?」

「はい?」

「亜季ちゃんに、勉強を、教えてあげたら?」

  先ほどの亜季と同じ反応である。二人は似た者同士なのかもしれない。

「えーっと、整理しますね。来年から受験生の亜季ちゃんに、あたしが勉強を教えるのを、篠崎先生は提案していると」叶苗は、人差し指で頬を突つく。「で、それが今、何の関係が あるんです?」

「あると思う?」篠崎は微笑む。「あるとすれば、今思いついたということぐらいだ」

「先生・・・・・・」

  叶苗は呆れきったという表情を浮かべ、やっとの思いで言葉を絞り出したようだ。

「でも、グッドアイディアかも・・・・。叶苗センセにもっかい教えてもらえるなら、わ たし嬉しいなぁ」

「私も賛成するよ」一通りテーブルの片付けを終えた羽澄が言う。「叶苗ちゃんさえ良けれ ば、だけどね」

「うーん、どうしよっかなぁ・・・・・。先生、事務所の仕事は良いんですか?」

「構わないよ。今のところ、掃除すべき場所もないし、整理すべき資料もない」

「じゃ、大丈夫ですね。亜季ちゃん、よろしく。マスターも」

「あまりお金は出せないけどね」

「いえ、おいしいコーヒーと、その淹れ方の伝授だけで十分です。亜季ちゃんのこと、友達だと思ってますから」

  叶苗は、そう言って最高の笑顔を浮かべた。

「やったぁ! 叶苗センセ、よろしく〜!」

「はいはい、あんまり飛び跳ねないの」

  全身で喜びを表現しようとする亜季と、それをなだめる叶苗。姉妹のような二人を見 て、篠崎は微笑ましい気持ちが八割、心の痛みが二割の複雑な気分に覆われた。

  結局この日、御堂彩音は姿を見せなかった。篠崎は呟く。

 「台風はUターンできない」

◇◆◆◇

       

 雑多なデスク。雑多な書類。うらぶれたオフィスを全力で表現している場所に、二人の 男がいる。一人は膨れ上がった風船のような印象の男。一人は痩身の男。

「ちょっと、生ぬるいんじゃないのかね?」

「俺に任せろと言ったでしょう? 気が早いよあんた」

  痩身の男が煙草を吹かしながら、独特の笑みを浮かべる。

「とはいえ、貴様のやり方では、いつ成果が上がることやらわからんではないか」

「確実に成果は上がっている。ビジネスに関しては手は抜かない。それよりも、一つ調べ て欲しいことがあるんだが――」

 

◇◆◆◇

 

  その日は、良く晴れた朝だったらしい。これは推測だ。今は曇っているが、昨夜の雨で 徹底的に濡らされた路面が乾いていることが、推測の根拠である。天気予報の時間は既に 過ぎていたし、確かめるには、テレビの出演者の誰かが、今朝の天気について触れるのを 期待するしかない。しかし、それも正確に言えば伝聞だし、サンプルが少なすぎて有意と は言えないだろう。こんな意味の無い思考とコーヒー、煙草が、起きたばかりの彼には欠 かせない。篠崎都馬の頭脳は、やっと身体の起床に追いつきつつあった。着替えを済ませ、 自室から事務所部分へと移動する。

「おはよう、真吾君。叶苗君は来てないのかな?」

「おはようございます。彼女はまだ来てません。んじゃぁ、出かけましょうか」

  深海真吾は、そう言って歯を見せた。篠崎は彼の洞察力に感心したが、あえてそれを口 にしないことにする。

「うん、じゃあ行こうか」

「俺の推理に触れてからにしてください」

「メモ書き仕様で行こう」篠崎は眠い目をこする。「篠崎都馬が先ほど起床。着替え、すでに完了。深海真吾、違和感。補足。昨日、篠崎が話したこと」

「不親切ですね」

「起きたばかりだからね」

  篠崎は不機嫌そうに言うと、昨夜から椅子にかけっ放しになっていたジャケットを羽織り、ドアへと向かう。真吾も立ち上がり、後を追った。

 

 二人は、サージュへ向かっていた。篠崎には複雑な思考が、真吾には単純な好奇心が、 それぞれの頭の中を支配していた。だから、というわけではないが、二人は一言も言葉を 交わさない。実際は、真吾が口を噤む努力をしていただけではあったが。

  地続きであれば、歩くことで距離を縮めることができる。今、その距離は限りなくゼロに近づいていた。それをゼロにすべく、篠崎はドアを押した。

「やぁ、いらっしゃい。今日は真吾君も一緒なんだね」

「ええ」

「マスター、亜季ちゃんはいないんですか?」

「あの子はあと一時間ぐらい学校だよ」羽澄は苦笑する。「亜季に会いに来たのかい?」

「いえいえ、視線のやりどころの優先順位一番なだけですから」

  そう言って、真吾は微笑みというには笑いすぎの表情を浮かべる。その直後、乱暴なドアベルの音が、彼の表情を変えた。

「ちわー、配達でーす!」

「ああ、お疲れ様。ちょっと待って。今、ハンコ出すから」

  そのやり取りを見て、真吾と篠崎は胸を撫で下ろす。羽澄は、カウンタの向こうで何やら物音を立てている。ただ印鑑を出すだけにしては、時間がかかりすぎている。やがて、金属が触れ合うような音と擦れあうような音が聞こえると、彼は姿を現した。

「すまない、待たせてしまって」

  配達の男は、にこやかに首を左右に振ることで、「そんなことありませんよ」の言葉を節約した。羽澄から印鑑を受け取り、捺印すると、そのまま去って行った。今度はドアベルの音は正常値の範囲内である。先ほどの乱暴な音は、荷物を両手に持っていたからだろう。

「マスター、もしかしてハンコを金庫にしまってるんですか?」

「そうなんだよ。面倒なんだけど。半年ぐらい前かな、街でひったくられてしまってね。それからは、なるべく持ち歩かないようにしているし、店の中でも注意しなければと思っ てね」

「認印でも何でも買えばいいじゃないですか」

  真吾は呆れた様子で言う。篠崎も同感だ。

「いやぁ、ウチの苗字、珍しいだろう? 既製品が売ってれば、さっさと買ってしまうん だけどね。どうもハンコという物にお金をかける気になれなくてね。だから、ウチにはこれ一つ」

  苦笑しながら、羽澄はそれを金庫にしまった。

「なるほど納得」

  まだ注文をしていないことを思い出し、篠崎はコーヒー、真吾はオレンジ・ジュースを頼む。羽澄は、手早く注文の品を準備する。その手つきを眺めながら、篠崎は煙草に火をつけ、話し始めた。

「で、大丈夫なんですか?」

  羽澄の手が止まる。彼はゆっくりと視線を篠崎へと移し、溜息をついた。「平気だ」

「そうですか」

  篠崎は、それだけ言うと、コーヒーに口をつけた。ニコチンを補給しながら、真吾が車の話を延々とするのに耳を傾ける。しかし、脳の全てをそれに費やしていたわけではない。

そうやって、煙草を五本ほど消費したところで、香月叶苗と、制服姿の羽澄亜季が、連れ立って店に入ってきた。二人とも、いたく上機嫌の様子である。しかし、若い女性が二人以上揃えば、観察できる現象の範囲では上機嫌に見えると、そう思うことがある。多数派が 真実を体現するのなら、これは間違いの無い観察であろう。

「やっほー、亜季ちゃん」

「シンゴさん、やっほー」

「さぁ、いつものをやろうか」

  軽薄な調子で語りかける真吾。叶苗は、彼と亜季を交互に見て、目を丸くした。

「そうね・・・・」亜季は真吾に向かって、流し目を送る。「シンゴさんのばかー!」

  彼女は目を潤ませて、カウンタの向こうのドアを開けて走り去る。その先は、羽澄親子 の居住空間になっているのだ。真吾に視線を向けると、彼は呆然としていた。

「・・・・・亜季ちゃん、プロセス大事」

「真吾さん、普段何をしてるんですか?」

  叶苗が軽蔑の表情を向ける。真吾はやっと切り替えが終わったのか、頭をかきながら苦 笑する。

「いやぁ、亜季ちゃんもやるもんだ。これは、誰かさんの影響としか思えない」

「だから、普段彼女に何をしてるんです?」叶苗は、眉を吊り上げる。「それと、誰かさんって?」

「普段は、からかって困らせるんだ。今日は"いつもの"結果だけをやったわけだ。で、 誰かさんというのは・・・・・・」

  篠崎が口を挟み、叶苗に視線を注ぐ。真吾も横で頷いている。

「え・・・・、あたし?」

「さぁ? 僕は君の後ろの時計を見ただけだよ」篠崎は微笑む。「で、今日は家庭教師?」  彼女は、頬を掻きながら、頷く。どうやら、自分で疑問の答えを出したようだ。

「あ、そう。頑張ってね。僕はこれから事務所に戻るから――」

  篠崎は、わざと途中で言葉を切る。

「はい。あたしは亜季ちゃんのとこに行きますね。ああ、それと――」  叶苗は、大きく息を吸いこむ。

「先生のばかー!」

  走り去った彼女の表情は見えなかったが、確実に笑顔だったろう、と篠崎は判断した。  プロセスはやはり重要だ。

「マスター、僕たちはこれで帰ります」 「ありがとうございました」

  篠崎は席を立ち、動こうとしない真吾に視線を投げる。

「・・・・・真吾君、帰らないの?」

「はい、俺には使命がありますから」

「その使命がどんなものかはわからないけど、僕は君を連れて帰った方が良さそうだ」篠崎は微笑む。「帰るよ」

「へーい・・・・・・。ちぇっ、『先生のばかー!』って言って走り去ってやろうかな」

「君はやらないほうが良い」

「・・・・・マジメに答えないでください」

  ドアを潜り抜け、事務所へ向かって歩き出す。その時、篠崎の目に、昨日の二人組が目 に入った。彼らはこちらを一瞥すると、サージュへと入っていった。

  篠崎は、羽澄の「平気だ」という言葉を信じて、そのまま事務所へ帰った。いや、彼自身もまだ平気だと思っていた。

 

  香月叶苗は、羽澄亜季の部屋にいる。今日は三度目の家庭教師である。ちょうど、篠崎 たちとサージュで鉢合わせてから、一週間である。今は、周囲を見渡し終え、相変わらず女性らしい部屋だと評価を下したところだ。熊のぬいぐるみや、パステルカラーのカーテン、どれをとっても十代の女の子に相応しい。何度来てもそう思う。

(あたしの部屋とは大違いだなぁ・・・・)

  一人暮らしと言う条件が追加されると、内装というものは極力無駄が排除されるものではあるが、自分とは根本的に指向が違うのだ、と実感させられる。

  その別指向の持ち主はというと、着替えの最中である。クローゼットの中身を見ると、 ミニスカートが多いのに気づく。叶苗はと言えば、地味なロングスカートが箪笥の奥底に文字通り"眠っている"だけである。

(今日に限って、何でこんなこと考えるんだろ。比べたところで、どうしようもないのに)

  叶苗はくすっと笑みを漏らす。

「ん?何がおかしいの?」

「うーん、機能性と装飾における、共存性の限界について考えてたの」

「そうなの? 難しいこと考えてたんだぁ」

  亜季は、尊敬の眼差しを向けてくる。半分はジョーク、半分は話題の停止を狙ったものだったのだが、両方とも、あまり成功したとは思えなかった。特にジョークは不発だった。篠崎の真似をしようとしたのが悪かったのだろうか。

「まぁ、それはおいといて、勉強、始めましょうか」叶苗は微笑む。「今日は数学よ」

「ふぇぇ、やだなぁ・・・・・」

「はいはい、嫌そうな顔しないの。可愛い顔が台無しだよ?」

「あはははっ! 叶苗センセ、真吾さんみたい」

  先ほどの嫌そうな顔が、スロットマシンのように笑顔に変わった。

「そ、そう? 真吾さんにも影響されてるのかなぁ・・・・・」

  叶苗は頭を抱えた。その様子を見て、亜季がますます笑顔になる。

  その話題はそれっきりになり、数学の勉強を始めた。亜季の現時点での学力は大したこ とはないが、飲みこみは早い。こういった生徒は、教える側にとって、大変気持ちが良い。 成果が目に見えて現れると言うのは、教師にとっての一番の糧であると言える。

  一定の成果が上がったところで、その日はお開きにし、彼女たちはサージュの店側へと 出た。羽澄の淹れてくれたコーヒーと、叶苗の作ってきたお菓子で、お喋りの時間は開幕する。ファッションの話、最近読んだ小説の話、どれも他愛ないものばかりだが、そうい った他愛のない、無駄とも思える会話こそ、彼女たちにとって最も貴重で楽しい。

  話題が一段落したところで、叶苗が口を開いた。

 「そういえばさ――」彼女はコーヒーを口に運ぶ。「何で篠崎先生は、急に家庭教師したら、 なんて言ったんだろ」

「トーマさんはね、わたしのことが心配なんだよ。叶苗センセみたいに、しっかりしてないから」

  彼女は屈託なく微笑む。自分を卑下したりせず、過大評価もしない。それが全く苦にな らないのが、彼女の美点だと、素直に思えた。

(いい子だよね〜。うーん、可愛いっ!)

  我に返り、亜季の頭を撫でている自分に気づく。慌てて手を離そうとしたが、彼女自身は気持ち良さそうにしている。しばらく続けることにした。

  ドアベルが響いて、男が入ってくる。彼は、鋭い目つきで周りを見渡した後、そのまま席に座る。注文を取りに傍へ来た羽澄に、耳打ちをする。

(あいつだ・・・・・。毎日来てるのは本当なのね。黒田って言ったっけ・・・・・)

  叶苗は、黒田を観察することにした。亜季もお喋りを続ける気はないのか、黙っている。 彼女もあの男には何かを感じているようだ。それは自分と同じものだ、と叶苗は思う。

  黒田は、スーツの胸ポケットから携帯電話を取り出し、何やら操作している。

  直後、サージュの電話が電子音を鳴り響かせた。

  叶苗の頭の中で、何かが囁くような感じがした。周囲の音が消える。彼女は何となく、電話の応対をしている羽澄の表情を伺う。数日前と同様、やはり落ちつかない表情である。 (・・・・・・あの時と、同じ)

  囁きが確かな声となる。あの時、篠崎は何をしていただろうか?

(そう、あの男の方を見て・・・・・・)

  囁きが消え、周囲の音が聞こえ始める。叶苗は、黒田を凝視する。耳は、周囲の音全て を聞き漏らすまいと、機能を最大限に発揮している。

「別にさ、返してくれなくてもいいんだよ俺は」黒田は厭らしい笑みを浮かべながら、携帯電話に喋りかけている。「その時はそれなりの手段を取るつもりだからさ」

「いえ、そう言われましても・・・・・」 叶苗は羽澄を見つめる。彼は笑顔を返してくる。しかし、完璧とは言えなかった。

「まぁいいよ。ただし、あんまり待たすと、今程度のことじゃ済まないんだなぁこれが」

「そう言わずに・・・・・。必ず何とかします」

  羽澄は明るい声と、直接的な言葉を避けている。亜季のことを考慮しているのだろう。 (先生は気付いてた・・・・・。あの男も、気付かれてることに気づいてた)

  叶苗の目は、磁石の異極に引きつけられるみたいに、黒田から離れなくなっていた。

  男は、こちらを見て、頭を突付き、親指を立てる。電話を切り、店を出て行った。

  叶苗は溜息をつく。どうやら、彼は気付いて欲しかったようだ。落ち着くために、コー ヒーを飲み、亜季に微笑みかけた。彼女は怪訝そうな表情だ。安心する。

  そして、再び頭の中に囁き声。 『ところでさ――』 『――受験だよね?』 『叶苗君――』  彼女は、理解した。

  囁きが止まる。

  頭が痛い。

  我慢する。

  努めて明るい声を出す。マスターと同じ――

「亜季ちゃん?」叶苗は、微笑もうと努力する。「あたし、明日から毎日来るね」

「え〜! 毎日お勉強なの〜?」

  彼女は気づいてないようだ。叶苗はかぶりを振る。

「違う。お喋りが半分に、三割が勉強」

「後の二割は・・・・・・・?」

  叶苗は、最高の微笑みを浮かべるのに全てのエネルギィを使う。

「数学よ」

 

  篠崎は、保険と暇つぶしの意味で、打てる手は打っていた。しかし、打ち尽くした感はある。新聞記者の九条を使い、情報を集めた。自分でも、出来る限りの情報筋を当たってみた。得られたのは、例の男――黒田が、フリーのビジネス・コンサルタントで、目的のため なら汚い手も使うような種類の男であるという情報だけである。

  彼は机上の煙草を手に取り、フィルタの先を指で弾く。それを何とはなしに続けていると ころへ、香月叶苗が息を切らせて入ってきた。

「やあ叶苗君、一人マラソン大会?」

  彼女は、胸を押さえて息を整えている。

「気づいたんだね?」

「・・・・・ええ。先生も人が悪いですね」

「君にあらかじめ知らせておくと、義務感が恐怖を超越しそうだからね」

  篠崎は、この先の展開に思いを馳せ、頭痛がした。こめかみを押さえて緩和しようと試みるが、それも失敗した。

「で、先生、どうするんですか?」

  叶苗は、怒りを抑えこんでいるようだ。無理もない。話してもらえて当然という気持ちもあっただろう。 吐き出した言葉は、彼にとっても、話した途端に嘘っぽく感じられるほど、曖昧だった。

「実は・・・・・、迷っている。僕が関わると、書かずにいられなくなるかもしれない。 僕は、あまりに身近な人間のことを世間にさらすのが怖いんだ」篠崎は、煙草に火をつけ、 思いきり煙を吸いこんだ。「君は、どうすれば良いと思う?」

  彼のその言葉を聞いて、何故か叶苗の怒りは収まったようだ。しかし、篠崎の頭痛は収 まらない。何かが頭から飛び出そうと暴れている感じがする。

  何を迷っているんだ。

  何を苦しむことがある。

  答えは――

  その、答えは――

「簡単ですよ。協力するんです」 叶苗は、事も無げに言ってみせる。「先生がやらなくても、 あたしがやります」

  彼女の言葉は、一桁の足し算のように明快で

  微笑みはミネラル・ウォータのように柔らかだった。

  篠崎は、彼女から視線を外すことができないでいた。多分、間抜けな表情をしているだろう、と思った。

「なるほど、簡単、か・・・・・」 篠崎は、煙を吐き出す。「そうかもしれないね」

  気づけば、頭痛は綺麗に収まっていた。

  全ては明日だ。

◇◆◆◇

 

  うらぶれたオフィス。膨らみきった腹の男と、痩身の男――黒田だ――が、話している。 「こないだ言っていたこと、調べておいた」

  男は、ファイルに綴じた書類を黒田に渡す。黒田は、それを楽しそうに眺めている。

「ふーん、なるほど。面白いな・・・・・」

「その書類を見てもわかるとおり、急いだ方がいいんじゃないのか?」

「いや・・・・・、ビジネスはなるべく美しく、なるべく危険は冒さずに」 黒田は楽しそうに笑う。「それよりも、あんたらの方が尻尾掴まれないようにな」

「馬鹿にするな。貴様の方こそ、しっかりやってくれよ。あまりに成果が上がらんようなら、儂の好きにさせてもらう。こっちだって追い詰められてるんだ」

「あんまり派手にやると、尻尾掴まれるぜ? 相手は――」

 

◇◆◆◇    

 

  全ては今日だ。篠崎都馬は、そう言い聞かせて起床した。午前九時十二分。奇跡的な早 起きである。叶苗の言葉がまだ効いているのか、不思議と気分は良い。彼は着替えを済ま せ、サージュへと向かった。

  ここ数日で聞き慣れつつあるドアベルの音に迎え入れられる。開店前の店内は、空気も 綺麗で、羽澄浩樹が窓を拭いていた。

「マスター、おはようございます」

「篠崎君、開店前なんだけど・・・・・」

  彼は苦笑しながら、席を勧めた。

「開店前にしか、できない話なんですよ」

  篠崎がそう言った瞬間、羽澄の表情が凍りつく。彼は窓拭きを止めて、席につく。

「聞こうか・・・・・」

「マスター、借金をしていますね? しかも、返済に困っている」

「・・・・・その通りだ」

 やはり、予測は当たっていた。黒田との電話のやり取りで明白に限りなく近いような気は  していたが、今の言葉でそれが確信に変わった。しかし、金融会社の人間でもない黒田が、なぜ取りたてのような真似をしたのかは、依然として不明である。

「詳しく話してくれませんか? 僕で良ければ、相談に乗ります。ただし、小説に書く可能性 があります。その覚悟があるなら、話してください。話す気がないなら、僕は手を引きます」

  羽澄は沈痛な表情を浮かべ、押し黙っている。

 ――ニ分ほど経っただろうか、彼は口を開いた。

「よし、話そう・・・・」

彼の話を総合すれば、こういうことである。

一年ほど前、彼は店の改装をするために、友人から金を借りた。しかし、その友人は現 在、失踪している。それから半年ほど後、債権が新宿の町金融"沢部興業"に移ったことが通達され、それ以降は、その会社から取り立てが現れるようになり、利子も増大したため、返済が追いつかなくなってきたのだと言う。しかし、一ヶ月ほど前、暴力団まがいの取り立てを続けていた沢部興業が、別の人間を寄越すようになったと言う。それが黒田である。彼の手法は、陰湿ではあったが、耐えられないものではなかったらしい。

「そういえば――」羽澄が思い出したように言う。「二週間ぐらい前、金を借りていた友人から電話がかかってきた」

「その人は何と?」

「お前を売り飛ばすような真似をしてしまった。すまない、と言って泣いていたよ。これ じゃ責められやしない」

  羽澄は一瞬、苦笑し、また翳のある表情に戻る。彼の優しさに、今の篠崎は苛立ちを覚 えていた。攻撃的なもう一人の自分が、顔を出しかけているようだ。彼は煙草を取り出し、 火をつけ、ゆっくりと煙を吸う。肺を満たす煙の様子や、血管の収縮、その全てを意識しな がら、煙を吐き出した。

「しかし、おかしいですね」 落ちつきを取り戻し、篠崎は言う。「僕は法律には明るくあり ませんけど、いまいちしっくり来ない」

「・・・・・そういえば、そうだね。今まで考えたこともなかった」

  債権譲渡が羽澄の知らないところで行われていたこと、利子が増えたこと。この二つが、 どう考えてもしっくり来ない。調べてみる必要がありそうだ、と篠崎は思った。

「ところで、亜季君はこのことを知ってるんですか?」

「いや、知らないはずだ・・・・・。取り立てはいつも平日の午前中だったし、最近も気づいた 様子はない」

「では、話すつもりはありませんね?」

「ああ・・・・・、できればそうして欲しい。あの子には、心配かけたくない」

  これが、親の心というものだろうか。親の心子知らず、なのだろう。しかし、逆もまた真なこともあるのだ。

  それでも、篠崎は黙っていることにした。こればかりは、専門外中の専門外だろう。

  彼は、親と決別しているのだ。

「では、僕は事務所に戻って、対策を練ることにします。叶苗君と真吾君に話すことだけは、了承してください」

「ああ、私の方でも、できることはやっておくよ」

  そう言って、羽澄は窓拭きに戻った。

 

◇◆◆◇

 

  篠崎が事務書に戻ると、香月叶苗と深海真吾がこちらを見つめてきたが、とりあえず本 棚から民法関連の書籍を取り、自分の机に座る。"債権"というキーワードで索引を引き、関連する法律をピックアップする。それを、ワープロで打ち込む。法律の文面と言うものは、仰々しく書いてあるため、一見しただけでは理解が追いつかない。理解のしにくい文章を目に した場合、彼はいつもワープロに打ち込むことにしている。そうすることで、理解が早まるのだ。これは、他人にはあまり理解できないだろうが、現に今、そうすることで理解したとこ ろだった。

「先生・・・」

  叶苗が、いつのまにか傍らに立ち、心配そうな表情で見つめて来ていた。

「ああ、協力を受け入れてもらったよ。詳しい事情も聞いてきた」篠崎は、曖昧に微笑む。「真吾君もこっちに来て、話を聞いてくれ」

「はいはい。お呼びがかかるのを待ってました」

  篠崎は、先ほど聞いてきた羽澄の話を、的確に整理して話した。そして、自分が持った疑問点、今、何のために民法について調べていたのか。

「なるほど・・・・」 叶苗は辛そうな表情をしている。「で、どうにかなりそうですか?」

「うーん。具体的な解決策は、契約書を見せてもらわないとわからないけど、ポイントはたった一つだね」

「話してください」

  叶苗の言葉に触発されたのか、篠崎ではなく、真吾が口を開いた。

「通常、債権の譲渡においては、当事者、すなわち債権者と債務者だ。この双方―― この 場合は、マスターの友人とマスター本人、その承諾が必要とされるんだ」  真吾は朗々と話 す。「ここがポイント。そうでしょう?先生」

「なるほど。マスターの話によると、債権が移った通知しかもらってないから、そこを突つけば、何か出てくるかもしれない、と」

「その通り。二人とも優をあげよう」

  篠崎は、叶苗の回転の速さに感心すると同時に、真吾の博識に驚いていた。 「真吾君、何でわかったの?」

「俺、借金のプロフェッショナルですから」

「それは、誉められたものじゃないね」

  篠崎は苦笑する。しかし、真吾の意外な一面を発見し、満足する。傍では叶苗と真吾の 会話が続いていたが、篠崎は別のことを考えることにした。やはり、気になるのは黒田の 行動だった。彼には、何か他の目的があるのではないだろうか。金を返済させるだけなら、 彼が出てくる必要はないはずである。あれでは、借金の返済をする前に、サージュが潰れ てしまうではないか。

  それでは本末転倒――

  急に頭の回転数が上がる。もう一人の彼が叫び始め、周囲の景色が曖昧になる。煙草で 鈍っていた様々な神経回路が鋭敏になり、脳内を電気信号が駆け巡るのがわかる。そんな、 感覚。それが、五分ほど続いただろうか。もしかすると、数秒だったのかもしれない。

  彼は、答えに行き着いた。

  黒田は、サージュが潰れることを望んでいる。そして、残った土地を手に入れようとしているのだ。そうに違いない。限りなく正解に近い推測だと、自分でも思えた。

  現に、サージュの客入りは減っている。それがゼロになる日も遠くはないように思えた。 「急がなければならないな・・・・・・」

  篠崎の呟きに、叶苗と真吾は怪訝そうな顔をしている。

「先生、復旧しました?」

 

◇◆◆◇  

 

急がなければならなかったが、出来ることから順に事をこなした方が良いと考え、篠崎は羽澄を連れて、沢部興業に向かっていた。契約書を見せてもらうためである。それに際して、一ヶ月の返済分に少し満たない金も持ってきてある。

「さて、行きますよ。シナリオどおりにお願いします」篠崎は微笑む。「僕がフォローしますから、安心してください」

  羽澄は、彼の言葉で緊張した面持ちを少し和らげた。そもそも、契約書が彼の手元にない方がおかしいのである。あまりに渋るようなら、それを材料に訴えても良いとさえ思っていた。

  沢部興業のドアをくぐると、砕石ハンマのように頑丈な男に出迎えられた。仏頂面で 「いらっしゃいませ」と言ってくる。

「・・・・今月分の返済に来たんですけど」

「ああ、あんたか。ちょっと確かめさせてもらうよ」 羽澄が持っていた封筒をひったくる ように手に取ると、男は中身を確かめる。「・・・・足りねぇぞ、これ」

「そんなはずは・・・・・・。先月と同じ額ですよ?」

「足りねぇんだよ!」

  男は声を荒げる。怯んで言葉が出て来ない羽澄に、篠崎は助け舟を出すことにした。

「本当かどうか、契約書で確かめさせてくださいよ」

「あぁん? お前誰だ」

「彼の友人です」篠崎は羽澄を指差す。「で、見せていただけますよね?」

「何で見せなきゃなんねーんだ?」

  男は凄んで来る。そうすることで、彼は今まで切り抜けて来られたのだろう。慣習は、 臨機応変な対処を妨げる。それに、いつも通用するとは限らないのだ。

「いや、契約者ですからね。見られて当然でしょう? そもそも、羽澄さんの所に契約書がないのはどうしてでしょう? これは問題ですね」

  篠崎は、不敵に微笑んで見せる。男は一瞬、不気味なものでも見る目をしていたが、また元通りの表情に戻る。その時、オフィスの奥から妙に高い声が響いた。

「見せてやれ。何なら、コピィを渡してもいい」

「で、ですが社長・・・・・」

「見せてやるんだ。何もやましいところなどないんだからな」

  社長と呼ばれた、風船のような男が沢部だろう。体格に似合わない高い声が、妙に可笑 しい。しかし、こういう人間が自信満々な時こそ、注意しなければならない。篠崎は頭を戦闘モードに切り替えた。

  命令された男は、オフィスの奥へ向かうと、三分で書類を持って来る。

「多分、見覚えも何もない書類でしょうが、慌てないでくださいね。情報を得て、対策を立て るために見るんですから」

  篠崎は羽澄に耳打ちする。彼は、これ以上ないぐらい深く頷いた。

「ほらよ。さっさと見て、満足したらそのまま持って行け。くれてやる」

  契約書のコピィを受け取り、篠崎は目を通す。昨夜、真吾から伝授されたポイントを目で追い、チェックして行く。期日は、五月十一日となっている。ちょうど五ヶ月ほど前。 次に借 金の総額と月々の支払いをを羽澄にチェックさせる。問題はないようだ。 そして、署名――

  そこに羽澄の名前があった。しかも、捺印までされている。羽澄は、一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに無表情を装う。 「すいませんね。やっぱり支払い金額、足りなかったみたいです」

篠崎は砕石ハンマの男に言うと、"差額の入った封筒"を渡した。

「これからは、しっかり返せよ」 男は眉をひそめて言う。「とっとと帰った帰った」

追い払われるようにして、篠崎たちはオフィスを出た。羽澄は恐ろしいものを見るような 目で、篠崎を凝視して、言葉を漏らした。

「あ、あのサインと捺印・・・・、私は見覚えがない」

「でしょうね。筆跡は?」

「私のものとそっくりだった・・・・・」

「なるほどね・・・・・」 篠崎は煙草に火をつける。「自信があるっていうことか」

「・・・・何とかなりそうかな?」

  羽澄がこちらを覗きこむようにして尋ねてきた。篠崎は肩を竦める。

  今のところ、打つ手はなかった。

 

◇◆◆◇

 

「あいつがウチのオフィスに現れた・・・・・」

「ほう? とうとう動き出したんだな」

  黒田が面白そうに言う。沢部は渋面以外の表情を忘れてしまったかのように、それを続 けている。

「あんたの計画はどうなってるんだ?!」

「順調だよ。もう一歩だ」

  電話が鳴る。沢部は不機嫌そうに受話器を取った。数秒後、彼の表情が凍りついた。  黒田は、それを尻目にオフィスを出て行く。厭らしい笑顔を消して。

  数分後、沢部が焦燥と怒気にまみれて、電話をかけていた――

 

◇◆◆◇

 

  自分の名前が勝手に使われることに、衝撃を覚えない者はいないだろう。それが、自分 に不利になるなら尚更である。その衝撃に見舞われ、沈み込んでしまった羽澄を送り届け てから、一日が経過している。

  時刻は午後二時三十分。篠崎都馬は、ぼんやりと煙草を吸っていた。自分なりに解決策 を考えてみたものの、どう考えても合法的には行かないものばかりである。物的証拠がない 限り、警察はあてにならない。真吾も知識と経験を総動員した上で、さらに金銭トラブルに強い知人を当たってはくれたが、答は出なかった。叶苗は、自分のやれることを全力でやると言い、サージュへ向かった。

  果てのない思考を続けている篠崎の頭脳を、インタフォンが引きずり戻した。しかし、 その時にはもう、真吾が応対に出た後だった。再び思考の海へ沈み込もうとした時、真吾が 戻ってくる。彼は事務机の引出しを開け、印鑑を取り出す。そう、篠崎の認印は、事務所の人間なら誰でも使って良いことにしてあるのだ。

  突如、篠崎は頭痛に見舞われる。彼にとって、これは思考の引き金である。何かを思い ついたサイン。自分では予期できないのだ。しかし、何がきっかけになったのだろう?

  曖昧な視覚、曖昧な聴覚。思考は研ぎ澄まされ、その他の感覚が曖昧になる。

  ――印鑑。回答は三秒で訪れ、更に何かが思い浮かんでくる。

  数字・・・・?

  月。

  日。

  そうか、日付か。

  もう一人の彼は、まだ頭の回転を緩めることをしないようだ。整合性のチェックを行っ ている。真吾が玄関から戻って来たのが見えた。

  回転が、止まった。

「真吾君、何とかなりそうだよ」 篠崎は、悠々と煙草に火をつける。「じゃあ、サージュへ行こうか」

  電話が鳴り響く。

「僕が出る」 篠崎は言って受話器を取る。「もしもし? 篠崎都馬事務所ですが」

『おう、九条だ』

「まだ続けててくれたんだね。ありがとう」

『まぁ、こっちも商売になりそうなんでな』 九条は欠伸をする。『で、だ。沢部興業って金貸しな、潰れかけてる。躍起になって取り立てしてるみてぇだが、それも限界だろうな』

篠崎は受話器を置き、事務所を飛び出した。

 

  香月叶苗は、サージュのカウンタに座っていた。折角の美味しいコーヒーも冷めてしまっている。様々な思考が彼女を支配していたが、どれ一つとして明るい材料は見出せない。

こういう状態に陥ると、何もかもシャットダウンしてしまいたくなる。何気なく壁掛け時計を見上げる。

午後三時過ぎ。

(亜季ちゃん、そろそろ学校が終わる頃だな〜)

  彼女の学校までは二十分ほどの距離だったので、もうすぐ帰ってくるだろう、などと考えていたとき、スイング・ドアが開いた。篠崎と真吾が入ってくる。

「あ、先生・・・・・・」

「やぁ、叶苗君」 篠崎は手を上げて言う。「マスターに話があるんだけど」

「どうしたんだい?」

  羽澄が応じる。

「半年ほど前に印鑑を盗まれたって言ってましたよね? 盗難届けは出しました?」

(・・・・・何の話? 先生、何か思いついたのね?)

「うん。当然出したよ。大事なものだからね」

「では、店を閉めてついて来てください。詳しい事は、道中お話します」

  羽澄は、篠崎の口調に逆らえないものを感じたのだろう。急いでエプロンを外す。

「あ、あたしも亜季ちゃんを駅まで迎えに行くから、途中までついて行って良いですか?」

「うん、良いよ」

「叶苗ちゃんってさ――」真吾が、歯を見せて笑う。「いいお姉さんだなぁ」

  駅までの道中、篠崎は、いつもより早口で話した。彼は、時々こういう話し方をする。普段の彼とどちらが本当なのか、まだ叶苗には判断がつかなかった。

「盗難届けの日付は、五月十一日よりも前ですか?後ですか?」

「ゴールデン・ウィークの手前だったと思うから、間違いなく五月十一日よりは前だ」

「それは良かった。これで余計な借金を返す必要はなくなりますよ。沢部興業との契約書に押された印鑑は、その時点で存在しなかったことになるんですから」

「盗難届けが物的証拠になるわけですね」

「その通りだ、叶苗君」 篠崎はなぜか苦笑する。「結局、偶然に助けられてしまったわけだ」

  W通りに出る。ここで、篠崎と逆方向になる。

「じゃあ、先生」

「うん、後でね」 篠崎は微笑む。「真吾君は、残るように」

「ナイト役を譲ってくれるんですね」

  篠崎は苦笑しながら、警察署のある方向へと歩いて行った。ここから歩けば、十分とか からない距離である。

  叶苗たちは、駅へと向かう。途中、書店のポスタに目を奪われたが、それは帰りでも良いと言い聞かせ、駅前へ急ぐ。なぜか、急がなければならない気がした。

「あれ・・・・?」 真吾が呟く。「あれ、亜季ちゃんじゃあ・・・・・?」

  地下鉄の駅への入り口から、見知った人影が出てくる。

「亜季ちゃ――」 叶苗は呼びかけようとして、真吾に口を塞がれる。「な、何するんです!?」 「見ろ。彼女、つけられてる」

  男が三人、亜季の後方数メートルの所を歩いている。

「ど、どうしよう・・・・?」

「まずは先生に連絡。T山公園までおびき出すから、急いで来るように伝えて」

  真吾は冷静だった。この辺りは人通りも多い。男達もまだ手は出さないだろう。亜季は、 書店を覗いたり、ゲームセンタを冷やかしたりしながら、ゆっくりと歩いている。 叶苗は、携帯電話を取りだし、篠崎に連絡する。呼び出し音が耳の中で響いている。

(先生、早く出て!!)

 何度コールしても、篠崎は出なかった。 気づけば、亜季はすぐ傍まで歩いて来ていた。 「叶苗ちゃん――」 真吾は片目を瞑ってみせる。「連絡よろしく」

彼は、亜季の手を取って走り出した。

「え?え? 真吾さん?!」

「いや、麗しき姫君を守るナイトだ」 真吾はおどけてみせる。「さぁ姫、全力疾走!」

  叶苗は、思わず苦笑させられてしまう。走り去る真吾と亜季、それを追う大男の姿を見送りながら、リダイヤルボタンを押した。

 

  捜査難航の末、篠崎都馬は、盗難届けに巡り会った。早速日付をチェックする。四月二 十六日。完璧である。羽澄が友人に借金をしたのが一年前。その時の捺印を元に作られた 偽造の契約書が、これで無効にできるのである。携帯電話が鳴っているような気もしたが、 今は取る気にはなれなかった。

「これで、無駄なお金を返す必要はなくなります。サージュも安泰でしょう」

「ああ・・・・。ありがとう」

  もう一度、携帯電話が鳴る。苛立ちながら、液晶ディスプレイに目をやる。叶苗からで ある。通話ボタンを押す。

「叶苗君か? こっちはうまく行ったよ」

 「亜季ちゃんがピンチなんです! T山公園っ!」

  篠崎は走り出した。羽澄が何か言っていたが、構っていられなかった。

  肺に悲鳴を上げさせながら走った。

信号を無視する。

彼は、歩けば十五分近くかかる道のりを、五分で走りきった。

見知った姿。

真吾だ。

殴られている。

「真吾君!!」

「先生、遅いですよ!」

  真吾は振り向きもせずに、相手に向かって行く。篠崎は、そちらに向かって走る。視界の隅に亜季と叶苗が映る。まだ無事のようだ。走るスピードに乗って、男の一人に体当たりを食らわせ、吹き飛ばす。そのまま追いつき、倒れている相手の胸を踏みつけた。

 まず一人。

「さて、ナイト交替だ」 篠崎は口の端を吊り上げる。「真吾君、お疲れさま。姫の介抱で も受けていてくれ」

「先生、いいとこ取りだよ・・・・」

 真吾はへたり込むように、地面に倒れた。半分泣き顔の亜季が駆け寄り、真吾に膝枕をした。叶苗は、ハンカチ手に持ち水道へ向かったようだ。

 視線を巡らせると、男が二人、襲いかかってくるところだった。同時に拳を繰り出して くる。篠崎は、バックステップで拳の間合いの外に出て、蹴りを放つ。間合いの差を生か した攻撃も、当たる直前で受け止められる。初撃が外されると、人数の少ない方は不利で ある。篠崎は、体勢を整えるために、また一歩下がった。

 ――瞬間、男達は加速し、こちらに向かって時間差攻撃を繰り出して来る。

 まず上段。クリーンヒットをもらう。

 二人目が下段蹴り。かろうじて膝でガード。しかし、バランスを崩してしまう。

 続いて中段突き。たたらを踏むように後退りながら、受け止める。拳を繰り出した勢いのまま突進してくる相手をかわし、その腹に膝蹴りを入れた。これで、二人目。

 残る一人は、沢部興業で篠崎を応対した男だった。

「ああ、君だったのか。今気づいた」篠崎は、話しながら息を整えている。「どうするかは、 君の自由だ。好きにしてくれ」

 男は迷っている様子で、しばらく黙っていたが、やがて自分の頬を叩いて気合を入れたのか、襲い掛かってきた。

 単純だが、隙のない攻撃。二人同時にかかってきた時よりも、むしろ手強い。左右の突きを、見事に上段、中段とばらつかせながら、蹴りとのコンビネーションも申し分ない。 パワーで劣る分、篠崎は何度も苦境に立たされる。ガードを通じて、衝撃が身体に伝わっ てくる。気付けば、視界が少し狭くなっていた。多分、瞼が腫れているのだろう。 相手が攻め疲れた瞬間を縫って、篠崎は攻勢に転じる。

 一撃そのものは軽いが、防ぎようのないスピードで、篠崎は確実にダメージを与えて行 く。相手がファイタ・タイプなら、彼はボクサ・タイプである。しかし、いつまでもその型にはまっているつもりはなかった。

 拳を連続して繰り出し、注意を上半身に引きつける。顔面のガードに専念させたところで、彼は脇腹に回し蹴りを放った。確実に急所を捉えた感覚。

 男は、うめき声を上げて倒れた。――三人目。

 安心したところへ、声が突き刺さった。

「先生、危ない!」

 叶苗の声。瞬間、右頬が熱くなる。

 眼前に革靴。上半身を反らし、かろうじてかわす。

「へぇ・・・・・、やるもんだ」

 黒田が、独特の構えをして立っていた。彼の紅く染まった指先を見て、篠崎は熱い右頬に触れる。血が流れていた。

「君か・・・・・・」篠崎は、黒田から視線を外さずに、煙草に火をつけた。「もう、手を引いた方が良い」

「俺のスタイルじゃないがな・・・・・、もうこれしか手がなくなっちまった。沢部の馬鹿ども、もう後がねぇから突っ走りやがった」

「何事もプロセスは大事だ。ビジネスマンだって、時にはそうかもしれない」

 この言葉は効果があるはずだ。篠崎は半ば確信しながら、思い出し笑いをする。

 黒田は、今まで見たことのない種類の表情を顔に浮かべ、肩を竦めた。

「プロセス大事、ね・・・・。違いねぇ。諦めよう」 黒田も煙草に火をつける。「何か訊きたいことはあるか? ノン・フィクション作家さんよ。必要だろう?」

「じゃあ、遠慮なく」 篠崎は煙草が更に美味くなるのを感じながら、尋ねる。「何故、サー ジュの土地を狙った?」

「沢部じゃない別のクライアントが欲しがってたからだ。沢部は、自分の会社が危なかった。そこで俺の出番ってわけだ」 黒田は、美味しそうに煙草を吹かす。「あの土地を手に入れて、さらに売る手筈まで付けてやろうってんだ。乗らなきゃ嘘だろう?」

 黒田は、楽しそうに笑う。 「なるほどね。だが、一つわからない。何故、あんな回りくどい手を使った?」

「すぐに尻尾掴まれるような手は、好きじゃない。なるべく綺麗に、限りなくギリギリの線で。それが俺のスタイルだからさ」

「僕の綺麗と、君の綺麗は違うようだ」

 篠崎は苦笑した。黒田に対して、妙な親近感を覚え始めている自分に気づく。

「ま、そうだろうな」 黒田も笑う。「さて、土地の代わりにあてがうもんを探さないとな」

 黒田は、手を振って去って行った。

 彼の背中を見送ってから、篠崎は振り向く。三つの笑顔が、そこにある。四つ目のはずの自分の顔は、果たして笑顔だろうか。多分、そうではないだろう。こんな時、いつでも 自分は笑顔になれない。

「さて、帰ろうか・・・・・」

「嫌だー! もう少しこのままー」

 真吾は、亜季の膝枕に頬ずりをする。亜季は、それを無視して立ちあがった。

「そう言えば――」 叶苗が呟く。「先生、警察から来たんだから、警官を連れてくれば良かったのでは?」

 篠崎は、咥えていた煙草を地面に落としてしまった。

 

 事務所よりは、サージュの方が近かったので、そちらへ向かうことにした。道中、真吾以外は誰一人、口を開かない。沈黙に耐えられる人種と、そうでない人種がいるなら、真吾は間違いなく後者だろう。しかし、今の彼は、自分が耐えられないわけではないだろう。

 もっと綺麗な精神が、彼を喋らせているに違いない、と篠崎は判断した。

 サージュにたどり着く。鍵は開いていた。

「篠崎君、置いていくなんて・・・・、どうしたの君たち?」

 羽澄は驚いた表情のまま固まった。亜季が、彼に向かって走り出す。

「どうしたんだ亜季・・・・・。何かあったのかい?」

 亜季は、彼の胸に飛び込み、堰が切れたように泣き始めた。

「亜季君がさらわれそうになったところを、僕らが何とか助けました」

「俺の活躍、見て欲しかったなぁ」

 真吾は、明るく言う。

「亜季・・・・・、大丈夫なのか?」

 羽澄は、彼女の汚れた制服を見て、気遣うように言う。

「大丈夫だけど、大丈夫だけどぉ!」 亜季はまだ泣いている。「お父さん、何で話してくんなかったのよ!」

「巻き込みたくなかったんだ。まさか、こんなことになるなんて・・・・・・」

「巻き込みたくない? 何でよ?! わたし、お父さんの娘だよ? 家族じゃない」

「だが――」

「亜季ちゃんはね・・・・」羽澄の言葉を、叶苗が遮った。「マスターのこと、誰よりも大事だと思ってるんですよ。親が子を思うように、子供だって、親のこと案じてるんです。機会があれば、力になりたいって思ってるんです」

 叶苗は、目を潤ませて力説する。亜季は、まだ涙を流していた。

「ああ、そうだったのか・・・・・」 羽澄は微笑む。「私は、亜季を子供扱いしすぎていたようだ」

 

◇◆◆◇

 

  その日を境に、篠崎は途端に忙しくなった。羽澄親子の了承を得て、執筆の準備に入っ たからだ。協力者の九条に電話を入れ、情報を提供した。いつも通りの手続きを踏んで、 作品のための資料を作成して行く。

  翌日、まだ事務所に誰も姿を現さない頃、九条の署名記事を読んで、篠崎はリアルに過 ぎると思った。一瞬の衝撃が頭に走り、それが徐々に形を為す。それに導かれるようにし て、篠崎はサージュへと向かった。

  羽澄親子に迎えられ、開店前のカウンタに腰掛ける。

「いらっしゃい。ブレンドだね?」

「ええ、お願いします」

「トーマさん――」 亜季が、顔を覗き込んで来る。「わたし、卒業したら、サージュを手伝 うことにしたの」

「そりゃまたどうして・・・・? 叶苗君に、成績は悪くないって聞いたけど」

「お客さんが減ってるサージュが持ちなおすには、わたしの力が必要だと思うの」

「看板娘のプライドだね」

 いや、これが家族というものかもしれない、と篠崎は思いなおす。 苦笑している姿から見て、どうやら、羽澄も了承済みのようだ。

 それ以降、篠崎は黙ったまま煙草を消費するだけの時間を過ごしている。

 待っているのだ。

 必ず現れるはず――

 その確信にも近い予測は、ドアベルによって証明された。

「まんまと乗せられたよ」

 篠崎は、御堂彩音に微笑みかける。羽澄親子が目を丸くしていたが、この際無視することにする。説明をしない方が良いこともある。彩音は、窓際のボックス席へと、篠崎を誘った。彼は、大人しく誘いに応じる。

「さっきのは、一体何のことでしょう? 全く覚えがありませんね」 彩音は完璧に計算さ れた微笑を浮かべる。「こんなことをしている暇があったら、原稿を書かれては?」

「僕の質問に答えてくれたら、すぐにでも」

「それは頼もしいですね。大変結構です」

「聞きたいことは一つだけ」 篠崎は、煙草を吹かす。「僕に原稿を書かせるため、たったそ れだけの理由で、あのメモを?」

 彩音は、彼の質問を聞いていなかったかのような態度で、髪をかきあげた。それだけの 仕草にすら、洗練された美しさがある。無駄のない美しさ。それが洗練という言葉の意味かもしれない。彼女は、完璧な微笑みを浮かべて、篠崎を見つめる。

 彼女は、百年の沈黙の後、口を開いた。

「美味しいですね、ここのコーヒー。貴方もそう思いません?」

「なるほど・・・・」 篠崎は、口笛でも吹きたいような気分になった。「貴女にとっては、 二つの意味があったわけだ」

「さぁ、どうでしょうね?」

 彼女は無駄のない動作で立ちあがると、サージュを出て行く。その時目に映った、リボンの赤色は、一生忘れられそうになかった。

 

 御堂彩音と入れ替わるようにして、香月叶苗がやって来た。

「あー、先生、やっぱりここにいた!」

 叶苗は、篠崎の腕を取り、ドアの方向へと引きずって行く。

「・・・・・叶苗君、何のつもりかな?」 篠崎はあくまで冷静に言う。「僕、何かした?」

「お騒がせしましたー」

 叶苗は、篠崎の質問を無視して、羽澄親子に挨拶すると、篠崎を店外へと引きずり出す。 そこで篠崎はやっと解放された。

 彼女は、明日の天気のことを話すように言った。 「またアップルパイを作ってきたんです」  彼女の微笑みにつられたようにして、篠崎も笑みを浮かべた。

「敵討ちだね? しかも、今回は準備万端だ」

「もちろん」 叶苗はガッツポーズを取る。「サージュのマスターとも、あたしの脳内でも、 会議に会議を重ねた結果ですから」

「それは楽しみだ」

 事務所に戻り、叶苗は甲斐甲斐しくコーヒーを淹れた。

 宣告どおり、彼女の淹れたコーヒーとアップルパイの相性は文句なしだった。

「少し遠かった喫茶店が、近づいたね」

  心配そうに覗き込んでいた顔が、一瞬にして笑顔に変わり、微笑みを残して定着する。

そして、囁くように言った。 「ええ・・・・、二重の意味で」

「二重ね・・・・・・」 篠崎は微笑む。「ダブル・ミーティング?」

「先生、違います・・・・・。またジョークですか?」

「ジョークであると同時に、ジョークではないんだ」 篠崎は、たっぷりと時間をかけて煙を吐き出した。「このジョークの名前、何て言うかわかる?」

 

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